12/1/1朝礼拝説教@高知東教会
ローマの信徒への手紙12章1-2節、レビ記19章1-2節
「礼拝から新しく始めよう」
教会の伝統的な暦で、今日1月1日は、主イエス・キリストの命名日と呼ばれています。クリスマスにイエス様が人としてお生まれになられて8日目、掟に従って割礼を授けられ、天使を通して与えられていたように、イエスと名づけられた。それが今日1月1日だという伝統です。実際の日付がいかであれ、新しい一年の始まりを、イエス様の名づけの日と共に始めるというのは大変に意義深いと思います。イエス様というお名前は、主は救い、主が救ってくださる、という意味のお名前です。主は救ってくださる、イエス様によって主は私たちを救ってくださる、イエス様と呼びながら、新しい一年を始める。一年の計は元旦にありと言いますが、神様の側ではもう決まっちゅうのです。この一年も、主が救ってくださる。だから、イエス様の名によって祈ればよい。主の名によって集うこの礼拝で、この一年も御言葉によって生かされ、救われ、造り変えられる一年として、やがてすべてが新しくなる日を心から待ち望んでよい。すべては新しくなるのです。たとえ私たちがそれに対して何もせず、あれもできんかった、これもできんかった、年賀状のことは言わんといて、という状態でも。今日新しい年が来たように、すべては新しくなるのです。主が新しくされるからです。
ただ、それが、相応しい主の迎え方かと言うと、そうではないので、今日の御言葉もまた勧めます。心を新たにして自分を変えていただきなさい。日本語訳が誤解を招きやすいのですが、自分で頑張って心を新たにしたら、その自分を変えて頂けるというのではありません。心も新たにして頂くのです。そしたら自分が変えられる。こう訳したほうがよかったでしょうか。心を新たにして頂いて、自分を変えて頂きなさい。
すべてが新しくなる時に、自分だけは変わらんというのはありえません。どうして私だけと悩む時だってありますけれど、私をも変えていただける。あるいは変わりたくないとさえ思う私も、です。変えられる。でもそれには、新しくされるのに相応しい、一つの行動、あるいは態度が求められると言われます。どうやって、心を新たにして頂くか。自分の体を、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。この一つだけ。これこそが、あなたがたに相応しい礼拝ですと、一つの求めが神様からなされる。
聖なる生けるいけにえとして捧げるという言葉は、教会では馴染みの言葉でもあるでしょう。聖なるとは、神様のものという意味で、例えば神様の家族の食卓で聖餐式です。その最後で、感謝の祈りを捧げつつ、この御言葉を受けて、こう祈ります。この体を生きた聖なる供え物として御前にささげます。先の口語訳聖書に従って供え物と言うのですが、いけにえと訳すほうが正しいでしょう。今この礼拝でもそうなのです。この礼拝が相応しい礼拝となるために、この一年を、新しく変えられた私として歩むため、歩み続けてブレないため、今ここで、自分自身を、神様の喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる礼拝。その他の一体何が、一年の初めに相応しいでしょう。
確かに、いけにえとして自分を献げるという言葉には、ゴクリと唾を飲むようなインパクトがあります。人間誰しも抵抗感を覚えるに違いありません。スカイダイビングするようなものでしょうか。想像するだに緊張感があります。それがスリルだと好む人もおるかも知れませんが、私は高所恐怖症でチキンですから、たとえ妻から誘われても無様で惨めな姿をさらすのに、何万円も出す気にはなりません。でも教会に神様を礼拝しに行って、いけにえになってお金まで献げて、お前大丈夫かと、あるいは思う人もおられるでしょうか。いけにえです。神学者カール・バルトは、ここには自分という体を持ったすべての人間に対する妨害、対立、攻撃があると言いました。自分の体と心とは、自分自身のためにこそ用いてきたし、今も、またこれからも用いるであろうすべての人間の前に主が立ちふさがって、いや、そのあなたの体と、もちろん心も、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさいと励まされる。それは人間が尊厳と高貴さ、自由と道徳と思ってきたすべての人間的なものへの疑問であり、神様がここでこの世と呼ぶ、すべて私たちに馴染みある生活風習や考え方に対しての、神様からの妨害と対立、攻撃としか思われない。そして、それは事実そうなのだと言うバルトの言葉に、私も、アーメンと思うのです。その通りだと思うのです。
神様に私たちは攻撃されている。でもそこで防衛ラインを引いて迎撃する兵士ではなく、いけにえとして、この攻撃を受けなさい。しかも、死んだいけにえでなく、生きたいけにえとして。それもまたインパクトのある言葉でしょう。言わば、全身麻酔ではなく、目が開いたまま、意識があるまま、神様が私たちを新たにされる救いの業を、生きたまま目覚めて受けるのです。私は、歯医者で歯垢を取るときも、手をギュッと握ってたら恥ずかしいと開いていたら、足の指がギュッと丸くなって、はい野口さん、リラックスして下さいねとチキンがバレて、ああ、全身麻酔だったら良いのにと思うのです。だからわかる気がします。神様に対して目覚めている。寝ている間に楽々変えられるのではない。だから信頼が必要なのです。この世に倣わず、信じなさい。この世に倣っている限り、罪から私を救われる神様の御手が、悪意ある攻撃としか思えないとすれば、この世に倣うなと言うはずなのです。確かに、神様の手が伸びてきて、ああ、これは放っといてくれ、それは取っていかんといてくれ、私を攻撃しないでくれと思うことは、誰しもあるのではないでしょうか。神様に攻撃されていると思う心、罪の心があるのです。
だから攻撃もあるのです。罪への妨害がされるのです。そしたら心は不愉快になります。ますます心が頑なになって、罪に突き進むときもある。この世は罪とは呼んでなくて、皆やっていることかもしれません。楽しそうに見えることも多いのです。でも神様に妨害をされたら、楽しみに疑問が混じるのです。何でこんなことやりゆうのかと自己嫌悪感が沸き起こります。罪悪感が湧き上がります。更に頑なになるときもあれば、苦しくなって、私は何をしたいのか、私は何をやっているのか、私は何をすればよいのかと神様の名を呼ぶこともあるでしょう。それでも楽になるとは限らず、この世の倣いに従って、神様に更なる敵対心を抱くこともありうる。それほどに罪を愛する心が神様から攻撃をされていて、休まることがなくなるのです。どうして攻撃をされるのか、私の前に立ちはだかるのか、頭ではわかっていても、心がわきまえていなくって、神様にも勝てなければ自分にも勝てない。そんな私たちであるにもかかわらず、それでも新しくなれるのは、まったくもって神様の攻撃が憐れみと恵みによるからです。憐れみは救いをあきらめません。恵みは人の自由を奪いません。だから、迫ってくるのです。決してあきらめることのない憐れみによって、恵みの勧めがなされるのです。あなたの罪は十字架の愛に負けたから、あなたの罪は赦されたから、あなたは神様に愛されているから、だからあなたは降参をして、恵みの攻撃に降伏をして、心も体も命も死をも、神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これがあなたに相応しい、神様に愛されているあなたに相応しい、神様を信じる礼拝だと、主はおっしゃってくださるのです。このため、私たちの前に立ちふさがって勝利する憐れみとなるために、人となられた神様は、その名を、主が救われる、イエス様という御名を名づけられ、世界にお与え下さいました。その名を呼べばよいのです。その名に負けたらよいのです。神様がその私たちを救われるのです。