12/1/22礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:47-53、イザヤ書43章21-28節 「赦しと癒しを」

12/1/22礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:47-53、イザヤ書43章21-28節

「赦しと癒しを」

 

私たちの教会が大津で伝道を始めてから25年が過ぎました。そして14年前の1月25日に、それまでの伝道所から教会となり、高知東教会として新しい歩みを始めた。その教会設立を記念しての礼拝を捧げています。その経緯は、クリスマスに発行された四国教区だよりにも記されています。受付のパンフレット入れにありますので、お読みいただけたらとも思います。そこに「始まりは神様の計画でした」との吉永長老の言葉が引用されています。どうして教会が立って、どうして神様の救いの業が、ここで前進しているかというと、神様のご計画であったから。それしか言いようがないのです。クリスマス・イブ礼拝でも同じことを言いましたが、どうしてイエス様が来られたかと言うと、始まりは神様の計画なのです。始まりはいつでもそうです。それをのっけからおかしな方向にもって行きそうになる人間の過ちがあったとしても、最初の最初の始まりは、いつでも神様の計画がそこにあって救いに向かって導かれていく。途中、どうしてこんなことがということは幾らでもあるし、もうダメかと思う。次々牧師が代わったり、14年前、やっと教会になったと思ったら洪水で財を失ったり。でも人間の思いをはるかに超えて、神様の救いがなるのです。それは救いの始まりが、神様の計画から始まったからです。言い換えれば、神様が、途中でどんなことがあったとしても、最後まで私たちを見離すことなく、必ず救い出してくださることを、神様が選ばれたから。これを選びと言う。私たちがキリストを信じることを選んだからというのが救いの始まりじゃ、ないのです。そうやって罪を赦され、救われることを、神様が選んでくださったから、それが神様のご計画だから、人間は私たちの側での選びや思いを、圧倒的にはるかに超えて、恵みによって救われるのです。

無論、神様の選びというのは、だから、あなたは、わたしがあなたに選んだ救いの道を、わたしに従って歩んできなさいと、私たちが神様の道を選ぶことを求められます。何を選ぶか、強制はされません。神様は人間が愛によって生きることを選ばれましたから、私たちが何を愛して生きるか、何を選ぶか、いや、誰を愛して誰を信じることを選ぶかを、私たちに委ねられます。ときに大人が子供に対し、それは危険だからと全部選んで押し付けてしまうことをせず、無論だからこそ教え導かれますけれど、じゃあ、何を選ぶかは私たちの側に、主は託される。

そしてユダは、救い主を愛することより、裏切ることを選びました。イエス様ご自身が、人の子と呼ばれた、人となられた神様を信じる道を選ぶのではなくて、じゃあユダは、誰を信じる道を選んだのでしょう。はっきりこの道を!というのは、なかったのではないかとも思います。何となく、自分にとって、こっちだと思われるほう。何か望ましく思えるほうや、だって、あっちには行きとうない。あっちは嫌という反対の方向を、あんまり考えないで選ぶということが、多々あるのではないかと思います。だから、反省もするのでしょう。何であんなことをしたろうかと。考えのなかった自分を反省する。

ピノキオのディズニー・アニメを私が見たのは、二十歳を越えてからでしたけど、途中、これは恐ろしいと思う場面がありました。人買いが子供たちを騙して嘘ついて、島の遊園地に行ったら、楽しいことがあるよ、お菓子食べ放題だよとか何とか言って、子供たちを連れて行って、ピノキオもノコノコついていく。そしたら、あれは何なのでしょうか。まるで闇そのものが人の形をしたような、あるいは闇の奴隷、闇の僕のような人型の物体が子供たちを奴隷にするために、うようよ出てくる。夢に見そうなその場面を見て、何と悪魔的な描写を思いつくのかと思いました。そう思う反面、いや、これが恐ろしく思うのは、これが確かに人間の闇の描写であるからだと思うのです。それは単にズルイ大人の闇を描いているだけでしょうか。親が何と言おうと考えないで選びたい、自分の好きなことをしたいという、子供の心にも潜む闇の恐ろしさを、年齢を問わず、暴いていたのではなかったでしょうか。後で、反省するのです。欲望のまま、考えないまま、何で、あんな行動を選んだのだろうと。もし反省もせんというのであれば、どれだけ深い闇でしょうか。

イエス様は、闇の中から現れた人々の顔をご覧になって、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっていると言われました。昼は違う顔をしているのです。主の語る神様の言葉に反感を持っていても、人々の手前、体面を恐れて手は下さなかった。人の顔色をうかがって、行動を選ぶ。よくやる選び方でしょう。でも人の目がないところ、闇の中に入ると、自分のやりたかった行動を選ぶ。闇が力を振るっている。直訳すると、闇の支配という言葉です。神の言葉に照らされて、光に照らされた行動を考え選ぶ時間ではなく、そのときには行動を保留して、あなたが本当にやりたかったことをできるようになる、あなたたちの時間になると、闇の支配がヌッと顔を出してきたと、主は言われる。

闇の力は、罪の支配とも悪魔の支配とも言い換えることができます。神様が憎まれる行動を選ばせるよう支配する力、闇の支配力。それゆえこれに先立つところでは、ユダにサタンが、悪魔が入ったとも言われていました。闇の支配に身を委ね、光のもとでなら選ばんかったであろうその道を、ユダは闇の力を得て罪を選んだ。ならそれは、果たしてユダだけに当てはまることでしょうか。ユダだけが特別だったとは、私にはとても言えません。それは、この福音書を記したルカにとっても、同様であったのかも知れません。ちょっと曖昧な記述の仕方を選ぶのです。十二人の一人でユダという者が先頭に立ってと、そんな、ユダという者とか言わずに、あのユダがと言えば、誰もがすぐわかる人物なのです。ともすると反射的に眉をしかめ後ろ指を指すようにして、あのユダだろと。でもルカの選んだ言い方は、ユダと呼ばれる十二弟子の一人です。まるで松明を照らしてイエス様をつかまえに来た群衆の中に、あれ?何で十二弟子が混じっちゅうが?十二弟子がどうして?と。今で言えば、いかがわしい場所で、あれ?なんでクリスチャンがおるが?どうして?と言わんばかりです。他の十二弟子たちが、この時を振り返ったとき、ユダをというよりは、私たちは十二弟子だったのにという恥じる思い、反省せざるをえない思いで、そこに現れたユダの顔を思い出したのではないか。私の顔は、そのとき、じゃあ主のすぐ側におりながら、光に照らされておったのか。神様の御心を選べたか。その内の一人は、主よ、切りつけてやりましょうかと問いながら、イエス様のお言葉を待たずに闇の中に飛び出して行って、バッと人の血を流す。これもまた、ある者としか言われません。イエス様からご覧になったら誰も皆、闇のような顔をしておったのではなかったかと、弟子たちもまた自分の内に巣食う闇の顔を、見つめざるを得なかったのではないかと思うのです。

裏切りが口付けでなされる。そこにも闇に迷う人の心が見えてくるように思います。口付けという言葉は、友情の愛を表すという言葉です。だからこそイエス様は、わたしに向かって友よと言いながら、裏切ろうとするのは、どうしてか。よく考えてみよと反省を求め、悔い改めを求めるのです。でもユダからしたら、だって、それはイエス様、わかるでしょという気持ちがあったかもしれんのです。人間的な弱さがあるのは誰でもある。でもそれを正当化する闇の力。だってそうせざるをえんかったから。だから今でも私はあなたの仲間のつもりですけど、主の考えにはついていけんから、こうせざるをえんかった。それはイエス様こそ反省すべきではないですか。もっと理解すべきではないかとでも言うように、闇の顔を正当化しようとするほどに、心が支配されてしまう。愛とは何か、友である、同情をするとは、どういうことかまで、闇に支配され、愛が自分中心に捻じ曲げられる。その闇の支配の中では、自分も裏切られているのです。裏切るという言葉も直訳は、引き渡す、という言葉です。あなたは、あなたの身代りとなって裁かれ死んで赦すため、人となった造り主、人の子を、なのに愛という名で闇に引き渡すのか。それは愛じゃない、考え直せ、悔い改めて欲しいと主は願われる。

むしろ私たち、神様に愛されている者たちを、闇に引き渡してしまうのが、愛の正反対にある闇の力、罪です。主は、あなたが行っているのは罪だ。愛はそのあなたをも罪から救い出すために、あなたを裁くお方が、あなたの身代りにわたしを犠牲として闇に引き渡してしまうこと。それが愛であり、そのためにわたしはあなたのもとに来たのだと、主はユダと私の罪を背負って死なれた。そうやって私たち全員の罪を負い、救い主が、闇の支配に引き渡された。そして、神様は言われるのです。永遠の御子が身代りに引き渡されたのだから、闇はそこにいる者たちをわたしのもとに渡さなければならない。それがキリストの死による奴隷の交換。十字架の上でなされた罪人の贖い、買い戻しだ。闇の奴隷となっていた者の身代りに、キリストが闇に渡されて、思いのままにされ、呪いの死にまで渡されたのなら、なら闇の奴隷となっていた者たちは、わたしのものだ。神の子となるべき者たちだ。だからあなた方は全員、戻って来なさいと、全能の父が呼んで下さる。死んでなお生きる復活の道を通って、キリストの後に従って、戻ってきなさい。あなたはわたしの愛する者だ。キリストの赦しと癒しを信じて、わたしを信じて歩みなさい。わたしがあなたを癒そうと、神様は招いておられるのです。

闇の勢力は人の人生をもてあそび、友よとか、愛せとか、散々に人間をもてあそび、揚句に奴隷にするのです。その闇の奴隷として生きる人間も、同じように人の人生をもてあそび、神様のお気持ちさえももてあそび、愛しているつもり、友のつもりでさえあるかもしれない。そんな裏切りの生き方を、けれどイエス様は叱って下さる。もうそれでよい、やめなさい、もうそんな生き方は十分だと、闇に騙されて負っていた傷も、優しく癒して下さるのです。闇に散々にもてあそばれて、その支配に影響された私たちが、神様をさえもてあそんでも、神様は、私たちをもてあそばれることはありません。かえってその罪を赦されて、傷を癒され、御言葉の光に照らされて、キリストの弟子として歩めるのです。神様が癒して下さいます。教会は、この光の中に立つのです。