11/12/25朝礼拝説教@高知東教会 創世記3章8-9節、マタイによる福音書1章18-25節 「神様が私たちと共に」

11/12/25朝礼拝説教@高知東教会

創世記3章8-9節、マタイによる福音書1章18-25節

「神様が私たちと共に」

 

人間が罪を犯して生きるようになって以来、神様は、ずっと人間を、一人一人を、捜し続けておられます。「あなたはどこにいるのか」と。

無論、見えないわけじゃありません。姿は見えているのです。人には見せんよう隠されている自分も、神様はすべてをご存知です。なのに、見たくても見えない、見出したいのに見出せないのが私たちの、神様に対する誠実な姿ではないでしょうか。

人に誠実であることさえ、難しいのが現実です。その場限りの優しさや、その場逃れの言い訳や、表向きだけ人前だけという自分の姿は、人には当然見せたくないし、自分でも見たくないものです。だから人間は隠してしまう。本当の自分すらわからなくなるほど、隠す名人になってしまって、それを言い当てたオネスティーという名曲もあります。翻訳するとズバリ誠実。誠実とは何とさみしい言葉だろう、皆偽ってばかりじゃないか。誠実なんて言葉、耳にすることさえできない、あなたから一番必要とするものなのに。ドキュンとくる言葉です。あなたから一番必要としているのは誠実だ。ヨセフの悩みは、まさしくここに由来しますし、誠実さを求めておればこそ悩むというのは、神様にとってもそうなのです。あなたはどこにいるのかと主に求められているのです。

誠実って何でしょう。それは愛を愛たらしめ、愛を支える、愛の秘密ではないかと思います。愛もまた、それが真実に愛かどうかは、目には見えない。じゃあどうするか。愛を感じるか感じないかの、感覚の世界に愛を押し込め、自分の感覚こそ、愛より優れたものだとするのでしょうか。それがどれほど頼りないかは、もう知っているのではないかと思います。なら愛は、やはりその一番奥底から愛を支える、誠実さがあるかどうかを、信じるかどうかではないのでしょうか。この人は誠実で、信頼することができる人だと、私はこの人を信じようと、自分をその人に委ねてしまう。そこに愛の絆が生まれます。愛は、その誠実さを相手に信じてもらえるときに、初めて完成を迎えます。だから愛されていることを、まるで第三者的に、あるいはお客さんのような態度のままで、愛がないとか、こういう風に愛してとか、到底言えるものではないでしょう。自分の誠実さもそこで問われるのが愛です。自分の誠実さが問われないまま、相手の誠実さも愛も問えません。誠実であることが愛を愛たらしめ、人を人たらしめるとさえ言えるのではないかと思うのです。

誠実さは、謙遜な態度と切り離せません。ヨセフもマリアも、なんて誠実で謙遜なのかと、嬉しくなると同時に、自分が恥ずかしくなるのがクリスマスの迎え方なら、それは尊ぶべきことだと思います。謙遜という宝箱の中に誠実が満ちていて、それを誰かのために与える。それを愛と呼ぶのではないでしょうか。マリアが、私は主のはしため、僕です、お言葉のとおりになりますようにと身を捧げ、その謙遜なマリアに主が宿られる。それはヨセフのためにでもあったのです。ヨセフをも罪から救うため、すべての人を救うため、神様の誠実なる救いの御子がマリアの胎に宿られた。

ただ、その愛を、最初は受け入れられんのです。当然のことだとも思います。マリアが大祭司の娘だったらまだありそうな話ですけど、何でナザレの田舎娘に、しかもどうして人の婚約者に、しかも俺の。理性と自我が複雑に絡み合い、けれど誠実な人ですから、マリアを信じることはできんけど、責めないで、おそらく自分が去ろうと決意する。自分が誠実なだけでは足らんのです。相手の誠実さを信じなければ、愛は完成せんのです。弱さが愛の邪魔をして、自分だけで足ろうとするのです。自分の計画、自分のやり方、そういう自分を捨てるようにして、相手の誠実を信じるときに、愛は真実の輝きを放ちます。愛とはまさに冒険です。そして冒険には勇気がいります。そこで自分という人間が、測られてしまうほどの重みを持って、愛が私たちの前に立っている。その愛を信じ受け入れるか、どうするか。あるいは、そこから去ろうとするか。神様の前からも、マリアの前からも。

クリスマスとは、その人間の弱さと罪を、神様が御言葉によって打ち破ってくださった、愛の勝利の祭典です。自分では逃げることしか選べない破れの中に、まさにその自分という破れの只中に、神様が御言葉によって来てくださって、恐れずに、ただ受け入れてよいのだと、ここに起こった全てのことは、わたしの手の中にあるからと、慰め訪れてくださるのです。私たちと共におられる神様が、どんなに私たちのほうから去ろうとしても、離れ去ろうと決心しても、神様が私たちと共におられることをこそ決心されて、わたしはあなたにとってインマヌエル、あなたがたと共にいる神、それがわたしだ、それがわたしの名であって、わたしの愛であるのだと、神様は、その愛が私たちの救いとなるために、人としてお生まれくださった。それは私たちの罪と破れを、三位一体の御子なる神様が、全部引っかぶり背負われて、十字架で神様と私たちをつなぐ掛け橋、天と地をつなぐ救いの絆となられるためです。たとえ、人間の作った橋は流され、命さえ流され失われても、神様が架けられたこの十字の橋は決して揺るがず、倒されず、人間の罪の破れを繕うのです。やがて、この胎の子が産まれ、成長し、十字架に架けられて死んだとき、私たち全員の身代りとして死んだとき、我が神、我が神、どうして私を見捨てられたかと叫ばれた。それはキリストが人として身代りに捨てられる代わりに、私たちがその罪にもかかわらず捨てられず、罪を赦され、破れを繕われ、あなたを見捨てることはないと神様に救われるためでした。神様はそこまで私たちと共にいてくださって、わたしのもとに来なさいと、語りかけ続けてくださっている。ただ来たらよいと。あなたがどこにいるかは知っているから、破れたままでもかまわないから、わたしがあなたを繕おうと言ってくださる。そのまま主の前に行く私たちを、誠実な者、信じる者と、主は受け入れて下さるのです。

ヨセフは、この神様に救われたのです。マリアも、そして私たちも、このキリストによって担われたのです。だから今日ここに、洗礼を受ける姉妹兄弟がおられます。新しく神様の前に生きていく、神の子として生きていく、喜びのいのちに生きるのです。神様が共にいて下さって、キリストがいつも執り成して下さっている。その真実に目覚めて歩む、主の誠実に担われて生きる、救いがここにあるのです。

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