11/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書1章26-38節 「おめでとう恵まれた方」

11/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1章26-38節

「おめでとう恵まれた方」

 

神様が天使ガブリエルを遣わすにあたって、まずは御前に呼ばれたのだと思います。ガブリエル。はい、ここに。時は満ちた!いよいよ御子が人として生まれる時がついに満ちた。おお、ついに!ガブリエルもなんぼか嬉しかったのじゃないでしょうか。神様のお顔も、いよいよ栄光に輝いておったのではないかと思います。まずは、天から始まったのです。世界の始まりも救いの始まりも、始まりは天から始まるのです。その始まりから自分を切り離し、まるですべては地上で始まると考えておったら、随分不自由になるのではないでしょうか。地上では、どうしてこんなことにと、不安に縛られ、どうして、どうしてと、自分の見えている範囲だけという制限にますます自分を縛りつけ、胸まで苦しくなることが結構少なくないように思います。でもそこに天から届くのです。そこで始まるがじゃないぞと、天を見上げて息をしてごらんと、はるか昔、そうやってアダムが、人間が初めて息をしたあの日のように、神様のもとでこそ息ができる。神様の言葉が届いたら、天から御言葉が届いたら、人間は自由になれるのです。

人を自由にする言葉がこれです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」無論、マリアに語られたその時には、天地を造られた神様が人して生まれる、その母として、あなたが選ばれたのですよという歴史上ただ一度限りの特定の祝いの言葉でありました。それは繰り返されません。が、その結果、生まれてくる喜びは、特定の人だけに留まらず、世界中すべての人に向けられたのです。おめでとう、あなた、あなたが恵まれた方ですよ、主があなたと共におられる。そう決意して来て下さった。キリストが、あなたの救い主として、来てくださった。三位一体の神様が、あなたを目がけて、恵みを差し出してくださった。おめでとうと。もしいま私たちの不自由な耳が開けて目が開け、神の子としての息をしながら自由に天を仰ぐことができたなら、いまなお天使たちがことほぐ喜びのおとずれ、おめでとうという大合唱が、聴こえるに違いないのです。

特にこの、クリスマスにはそうでしょう。クリスマスはやはり特別なのです。この日には、教会に来る人が増えるのです。何故かとお考えになったことはないでしょうか。そりゃ、だって、え~とと、色々と考えることはできるでしょう。その考えもまた、天から始めてみませんか。随分自由になると思います。神様が、開かれる道があるのです。まるでモーセの目の前で、海が二つに分かれたように、不思議と礼拝への道が多くの人の前で開かれる。無論、最終的には自分で選んだということがあるのは疑えないでしょうけど、その前に、マリアがそうであったように、選ばれたのではないでしょうか。マリアが選んだのではなかったのです。マリアが望んだのではなかったのです。天から恵みが降ってきたのがクリスマスです。しかも、おめでとうの言葉と一緒にです。

けれど、おめでとうって天使がマリアに告げたとき、マリアは戸惑い恐れを感じました。人間って、わからんことに出会うと恐いものです。そのことも神様はご存知です。だから天使は言いました。これは恐れるものではなくて、恵みですって。でもそれが、人間は恐いのかもしれません。恵みって相手が恵むことを選ぶのです。自分で選べないのが恵みであって、クリスマスプレゼントと同じです。自分には何が選ばれているのかと、もしも相手を信頼できれば、わくわくするのだと思います。けれど信頼がなかったら、信じることができなかったら、箱を開けるのも恐いでしょう。突然の恐ろしい告白を聞かされるようなもので、神様が愛しておられる、本当に十字架で死んでしまわれるほど、私を愛しておられるとの信頼関係がなかったら、恐ろしいのは当然です。マリアも神様イコール恐いというイメージが少なからずあったのだと思います。

だからこそ、その恐れを拭い取るように天使は告げます。神様は、あなたに最高のプレゼントをお与えになる。永く約束されてきた救い主、世界を罪と死から救い出す、イエス・キリストを、あなたは身ごもり、世界への最高の恵みの贈り物を産む。あなたがその選ばれた宝箱だと。

マリアは改めて驚いたに違いないのですが、心の底は嬉しかったと思います。そんな夢にさえ見なかった神様の恵みが本当に私に起こるのだろうか、神様は本当に私を宝箱として、お選びくださったのだろうか。本当だったら嬉しいけれど、恵みを信じきれない自分の姿を正直に天使にぶつけるマリア。どうして、そのようなことがありましょう。天使は説明をするのですけど、説明されて、わかったでしょうか。むしろ最後の天使の言葉に、信仰の納得を得たのじゃないか。神様にできないことは何一つない。これは理屈ではありません。これは信頼を求める言葉です。どうだ、マリア、信じるか。神様はあなたをお選びになった。その神様の恵みを信じるか。世界は、神様の恵みに救われる。神様が人々を救われるのに不可能なことなど何一つない。あなたはこれを信じるか。マリアは応えた。私は主のはしため、僕です。神様がお選びくださった宝の道を、私も選ばせて頂きます。私にその通りなりますように。救いはそうやって来たのです。

このマリアに語られた「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という御言葉。これを、自分のお葬儀でも読んでもらいたい愛唱聖句として選ばれた方を複数存じています。思うに、その方々は、クリスマスに洗礼を受けられて、そこでこの御言葉が語られ、あ、これは私だと、受け止めたのじゃないかと思うのです。なんと幸いな人でしょう。この御言葉が私に実現していると信じる人は。その人も、きっとマリアがそうだったように、どうしてこんなことが私に起こったのでしょうと、神様に祈ることがあったと思います。不安もあったし、暗い道も通った。悲しみの涙を流しつつ、でもそこで、神様、あなたは共におられて、私はあなたに向き合えました、あなたのもとで息をしたとき、私は慰めを受けました、あなたは私を恵まれましたと、神様が私に選んで下さった救いの道を、喜んできたのだと思います。明日朝の礼拝でも洗礼が執り行われます。私たち全員がそうだったでしょう。洗礼に至る道のりは決して平坦でなかったし、悲しみや苦悩があったのだけれど、でもそこにキリストは私と共にいて下さった、私の重荷は負われていたのだと、改めて知るのが洗礼の恵みです。洗礼をぜひお受けくださってほしいと祈っています。また、そこで約束されているこの恵み、主が、いつでも共におられると、わたしは決してあなたを見捨てず、あなたを見離すことはない、死んでなお生きる復活のいのちに、あなたも死から起き上がって歩みなさいと、キリストが約束してくださっている救いの恵みに、共に歩んで行きたいと心から願います。神様にできないことはありません。だからクリスマスには喜ぶのです。おめでとう、あなたが恵まれているその人です。