11/12/18朝礼拝説教@高知東教会 イザヤ書9章1-6節、ルカによる福音書1章78-79節 「永遠の扉が開き光が!」

11/12/18朝礼拝説教@高知東教会

イザヤ書9章1-6節、ルカによる福音書1章78-79節

「永遠の扉が開き光が!」

 

この御言葉を聴いて、ヘンデルのメサイアが頭に鳴り響いている方がおられるかもしれません。私も説教準備の間、うろ覚えのおぼつかない歌詞ですが、もう鳴りやまんくらいグルグル脳が口ずさんでいました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」今読みました御言葉はここまで過去形です。生まれた。今の私たちからすれば、そうだ、確かに、イエス様はお生まれになったと思うのですが、この預言がなされた2700年前からすると、まだイエス様はお生まれになってないので、ありゃ?という感じがするかもしれません。これは聖書の文法で、預言的完了形と呼ばれる文法なのだそうです。だから日本語で言う過去形ではなくて、完了形。土佐弁なら、雨が降った、が過去形で、雨が降っちゅう、が完了形。もう雨が降っていた状態は完了して、今はもう雨が上がっているという、土佐弁はなかなか優れちゅうと感心します。で、預言的完了形というのは何かというと、神様の約束が与えられた時点で、その約束はもう完了したも同然だという、約束の確かさを言うのです。例えば、あなたの信仰が、あなたを救ったとイエス様がおっしゃる。その人が救われたかどうかは死んで神様の前に立って、人生の総決算、罪の裁きがなされるときに、時間的には初めてわかることだろうのに、もう救われた、とイエス様はおっしゃる。ご自分を信じる人を、イエス様はもう既にギュッとご自分に結び付けてしまわれているので、目には見えいでも、肌で感じることがなくとも、もう信じて良いのです。自分の感情や感覚は不確かでも、イエス様は確かだと、イエス様が言って下さったから、もう絶対に確かながやと信じてよい。預言というのは神様の言葉ということです。言葉を預かっているので預言です。単なる人の言葉なら不確かです。神様の言葉なら確かなのです。不確かなのは、それを信じることのできん人間のほうではないでしょうか。あなたを愛しますとか、もうやりませんという人間の約束が、どんなに不確かか。知らん人はおらんと思います。

この預言的完了形で語られた1節から5節前半は、いずれもイメージ豊かです。曙のイメージでも描かれますが、夜空に光るベツレヘムの星に導かれてきた東方の博士たちのイメージや、羊飼いたちの頭上で輝いた天使たちの賛美の光も、ここに思い出すことができるかと思います。いずれの場合も、喜びをもたらす光でした。しかも深い喜びだと言う。浅くはない。クリスマスの喜びは、25日を過ぎたら鏡餅にすげ替えられて段ボールにしまわれて来年出てくるような、そんな浅い喜びとは異なります。深い。深い喜びです。この深さに、私たち本当は皆、渇いているのではないかと思います。なのに同時にキリスト者であっても、浅い目先の喜びをとっかえひっかえして、神様の深みに飛び込んで行くということが中々容易ではないということも、確かであるように思います。何かがブロックしておって、浅い人間的満足に留まらせる。そして浅いが故にこそ、いつも不満で、魂がギスギス渇いている。

その邪魔をしているブロックこそ、ここで闇とか死の陰と呼ばれている罪の力だと思うのです。10年ほどの前のベストセラーの言葉で言えばバカの壁と言ってもよいのかもしれません。自己満足、自己中心、自分自分というブロック、壁が、私たちの人生を浅くしてしまう。頑固頭のことを、英語でブロックヘッドと言いますが、まこと言い得て妙です。自分自分の頑固さ、罪が、救い主の深い喜びに飛び込むことを、押さえつけブロックしてしまう。

でもそこに、預言的完了形で語られる神様の救いの約束が、私たちの上から輝きました。この深い喜びを、あなたも祝って良いのだと、神様の御前に招かれたのです。神様の前でこそ、深く喜べると言われます。そうでしょう。神様の前にいないと、浅くなってしまう。よくわかるのではないでしょうか。その深い喜びが、どんな深い喜びであるかが色々なイメージで描かれます。その中で一番私の心を捕えたイメージは、地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服がことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされるイメージです。軍服を投げ込んでいる人々の表情を思い描いて欲しいのです。どんな顔をしているでしょうか。誰の軍服でしょうか。ネームはないですか。血が付いています。いや血にまみれています。誰が誰の血を流したのでしょう。もしかしたら隣人の血を、私たちが流したのではないでしょうか。本当は愛すべきだった人の顔に、頑固なブロックヘッドで頭突きして、愛すべきだったのに傷つけて、返り血を浴びたのじゃないか。なんでそんなことになるのかは戦争体験者でなくてもわかるのではないかと思います。私たちがいつの間にか着ている軍服が、火に投げ込んで永久に燃やしてなくしたい軍服が、あるのではないかと思うのです。家族の中ですら勃発する、つまらない争いや小競り合い、人に言えない憎しみや冷たい狂気という軍服を、脱ぎ捨て全部火に投げ込んで、永遠に葬ることができたなら、クリスマスの天使たちの歌を、神には栄光、地には平和と、真心から喜んで歌えるのではないかとも思うのです。

何度も捨てようとは思ったのです。本当は着たくなんてないのです。でも人を赦せず、イライラして、自分自分で愛を失い、喜びも平和をも失って、銃を持つ代わりに、口から鋭い言葉を吐き出す。仮に穏やかな言葉であっても、内心はまるでナイフのよう。戦争も同じように始まるのではないかと思うのです。相手を上からねじ伏せて勝ちたい。いかに自分が正しくて相手が間違っているのかを、思い知らせて支配したい。そして戦争を起こすのです。いつの間にかあの軍服を着用して、支配欲という罪が詰まった頑固な頭で、頭突きを食らわしてやりたいと、喜びと平和を失っている。

相手が悪いということもそりゃ無論あるろうと思います。もっと頑固なブロックヘッドで、何度も私に頭突きをしてくるから、だから相手を支配しないと、自分を守るために勝たないかんと、勝つか負けるかやと思うから、だから平安がないのでしょうか。勝たんと平和はないのでしょうか。そうやって、ずっと人間は戦ってきました。勝てば喜び、負けたら全部闇、死の陰だと。ずっと戦火を燃やしてきました。この預言がなされた紀元前730年前後、イスラエルはアッシリアに戦争で負けて、ガリラヤ地方は略奪されて、人々は悲惨な状況にありました。文字通り死の陰に人々は住んでいました。

でもそこに、天から光が輝いたのです。それはまだ、完全に成就した約束ではなかったけれど、キリストが来てくださった今も尚、まだ完全には成就してないけど、ひとりのみどりごが生まれたとき、私たちのためにお生まれになったとき、悲惨な状況しか生み出さない軍服の行き場が決まったのです。軍服をこそ火に投げ込んで焼き尽くし、そうやって地には平和が訪れる。延々と戦火が燃えている地上にもです。地上に罪の火が燃えてなかった時代があったでしょうか。街が燃やされ、人が燃やされ、欲望の業火が人々の生活をなめ尽くす人間の罪の世界に、でもまったく別の火が投げ込まれ、天から光りながら火が降ってきて、この火の中に、あなたの軍服を投げ込めばよい、そんなもの焼いてなくしてしまえばよいと、神様がキリストを投げ入れて下さった。罪を焼き死を滅ぼすための聖なる神の火を、地上に投げ込んでくださった。

イエス様がおっしゃった大切な御言葉があります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」思いを込めておっしゃった。そして更に思いを込められこう言われた。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」ルカ12章に刻まれた主の御言葉です。ここでイエス様が、しかしと続けておっしゃった洗礼は、私たちが受ける水の洗礼ではありません。火の洗礼です。洗礼者ヨハネが、キリストは聖霊と火であなたがたに洗礼を授けられると言った、火の洗礼を、しかし、イエス様ご自身が受けられて、あなたが受けるべき火の洗礼を、でも、あなたが受けたら焼き尽くされてしまうから、この火は罪を焼き尽くす、神の怒りの炎であるから、あなたが焼き尽くされないために、わたしが代わりにその火を受けると、十字架で焼かれて陰府にまで降られ、罪として処断されてくださった。それがキリストの受けられた、罪を焼き尽くす火の洗礼です。

ならその洗礼をキリストが私たちに授けられるとはどういうことか。それはキリストが十字架で焼かれて死んだとき、私たちもキリストと共に死んだのだと、キリストに包まれ、炎から逃れて、けれどキリストと共に死んだことにしてよい、そのためのキリストの死であったから、だからキリストと共に死んだあなたは、その火から水で救われ、新しい人として生まれ変わって、聖霊と水とで洗礼を受け、キリストの復活の命に結ばれて、神の子として新しく生きよ。それが救いの洗礼です。

その洗礼が私たちを確かに救うため、キリストが生まれて下さった、わたしたちのために、救いの御子が生まれて下さった。だから私たちはクリスマスを心から祝うのです。本来、火に投げ込まれるべきであった私たちの代わりに、キリストが焼き尽くされて下さったから、そうして驚くべき指導者となって下さり、力ある神であられる方が、永遠の父と呼ばれる聖なるお方が、平和の君として私たちを救って下さる。あなたの罪は赦された、わたしはあなたの救いになったと、救いを成し遂げて下さったから、だからクリスマスは喜びなのです。浅くない、25日だけで終わらない。今もそしてとこしえに平和の御国の入口として、ずっと開き続けているのです。

ここに燃えているクリスマスの蝋燭の火に、その愛の火を見てもよいと私は思います。そのためにキリストは来てくださったから、罪を焼き尽くす聖なる火として、私たちを待っていて下さるから、この火を見つめながら祈りを捧げ、主よ、私の頑なな罪の軍服を、あなたが十字架で受けられた赦しの火の中に投げ込みます、どうかこの罪を焼き尽くして下さい、私を新しくして下さいと、悔い改めて、キリストに祈ればよいのです。そこに神様から約束された、深い喜びがあるのです。