11/12/11朝礼拝説教@高知東教会 ハガイ書2章1-8節、ヨハネによる福音書2章19-22節 「栄光の主が来られる」

11/12/11朝礼拝説教@高知東教会

ハガイ書2章1-8節、ヨハネによる福音書2章19-22節

「栄光の主が来られる」

 

クリスマスの慰めが、今読みました旧約の御言葉にも響いています。わたしはあなたがたと共にいる。実に旧約聖書の中で何度も何度も語りかけられ続けてきた主の慰めの御言葉です。励ましと言ったほうが、特に今日の場合はわかりよいでしょうか。主が私たちと共にいて下さるなら、じゃあ私たちは何ちゃあせいじゃちかまわいで、じゃ、あの~私は好きなことしながら休ませてもらいます、というのではありません。わたしがあなたがたと共にいるから、だから働きなさい、わたしがあなたと共におるからと、聖なる万軍の主が言われる。

クリスマスに向けて、教会は最高の伝道のシーズンを迎えますから、働け、伝道せよ、わたしがあなたと共にいるというメッセージは、日本の教会ではわかりよいのではないかと思います。先週配布した、かわら版にも、クリスマスは教会で、と大きく書きました。他にどこに行くがですか。クリスマスですよ。そりゃ教会でしょう。でも一人では敷居が高く感じるだろうから、じゃ、一緒に行きませんかと誘うには、最高の機会を主が与えて下さっているのだと心から思います。かわら版、まだ余ってますから、ぜひぜひ受付から持っていってお用い下さい。今年は特別にクリスマス家庭集会をと、田中長老のお母さんのところに伺うことも決まっています。まだまだ来てと言われたら行きますので、呼んでください。いやあ、けんど先生忙しいきと遠慮は無用です。クリスマスに牧師が暇しよって、どうして神の家を建てることができるでしょう。どうぞ用いて下さい。そして倒れんようお祈り下さると助かります。

多少、このハガイ書の背景を説明する必要があるかと思います。主の御言葉に背き続けて悔い改めなかったイスラエル王国は、その裁きとしてバビロン帝国に滅ぼされ、栄華を誇ったソロモン神殿も、燃やされ、破壊され、倒されます。主なる神様の家として建てた神殿。この神殿を中心に、私たちは神様の家族形成をしていきますと、そのために建てた神殿でしたが、神様抜きの生活をし、宗教は形だけ、神殿はただの家。家族あっての家なのに、家族形成のための家なのに、家だけ立派で生活は皆自分勝手。そんな家はいらんと神様が怒られて、神殿は一度完全に倒されて、国としても一回滅んだのです。が、神様はイスラエルを完全に見捨てたのでなく、えいかえ、わかったかえ、わたしなしの生き方がどんなに虚しく的外れだったか、不誠実という罪が、どんなに恐ろしい結果を招くかを。しかし、わたしはあなたに誠実を尽くす。もう一回、やり直そうと、遠くバビロンの地に捕虜として連行されたイスラエルの民を約50年の時を経て、再びユダヤの地に連れ帰って下さった。しかもペルシャ帝国からお金まで頂いて、これで神殿を再建しいやと。もう皆喜んで神殿を建てる準備をし、基礎までは据えたが、後が続かん。近所の人々から嫌がらせを受け、自分らの生活も楽ではない。やる気を失ってしまうのです。やらないかんということは知っちゅう。これが神様の御心であることはわかっちゅう。けんど人から嫌われるし、最初の勢いもなくなって、ちょっとここいらで自分たちの生活を優先せんかえと、そういう意見が周りからも出てくる。教会で言えば牧師や長老にあたる当時のユダヤ地方総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアも、カリスマタイプのリーダーではないので、えーと、どうしようと言っている間に、どんどんやる気がなくなって、結局、自分たちの生活が優先になる。神殿はまたもや、ただの宗教的家屋になりかねない。神の家再建のチャンスを再び与えられた民だったのに、またもや神の家族を建て損ない、倒れる危機的な状況にある。

そこで神様が預言者ハガイを通して、勇気を出せと言われるのです。信仰をと言うのではなく、勇気を出せ!ああ、そうだって思いました。信仰はあるのです。無きに等しい信仰かも知れませんけど、けれどないのは勇気なのです。クリスマスに求められる闘いは、勇気の闘いだと。総督も、大祭司も、また民も。今こそゼルバベルよ勇気を出せ。大祭司ヨシュアよ勇気を出せ。国の民は皆勇気を出せ、と主は言われる。主の民、神の家族として、なすべき働きを働きなさい、わたしはあなたがたと共にいると。

主が共におられたら、苦難がなくなるのではないのです。苦難の只中であればこそ、もういかん、自分の昔の道に逃げていこうと思いたくなる私たちに向かって、いや、そうじゃない、わたしはあなたと共にいるから、勇気を出して、わたしに従って来なさいと主は言われる。モーセもそうでした。同じクリスマスの励ましを受けました。そして海を割る強風の向かい風の中を、勇気を出して突っ切っていった。民もまたその後を突っ切った。わたしが共にいるからと、主の約束を信じることで、勇気を出すことができました。モーセより、クリスマスと言えばマリアでしょう。まだ15-6であったろういたいけな少女が、主があなたと共におられるという約束を信じて、誰が信じてくれるろうという処女懐胎の重荷を背負って、家族に向き合い、婚約者に向き合い、やっぱり理解されんという人間の弱さと、それでも勇気を出して祈って向き合う。その当のヨセフもそうでした。人間は受けとめれんことがどうしてもある。でもそのヨセフに神様の御言葉が飛び込んで、マリアの胎の子は聖霊によって宿った神の子、この子が、ご自分の民を罪から救う、その名は、インマヌエル、神様は私たちと共におられるという意味であると、人の思いや言葉でなくて、神様の言葉を受けたから、ヨセフは勇気を出すのです。マリアを信じ、神様を信じて、世界にイエス・キリストの救いを運ぶ聖なる器となったのです。イエス様ご自身おっしゃいました。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。だから今日の御言葉も告げるのです。民は皆、勇気を出しなさい。わたしはあなたがたと共にいる。だから、わたしの家を建てなさい、神の家族を形成しなさいと、万軍の主は言われます。

ソロモンが何でもしてくれよった昔の神殿の栄光など、昔話にすればよい。神様が望まれるのは家族です。主を愛し、主の愛で互いに愛し合う神の家族こそ、神様が望まれるゴールであって、愛のない宗教的家屋はお呼びでない。神殿と訳された言葉は、家、主の家という言葉です。新しい家の栄光は昔の家の栄光に勝ると主は言われます。立派だったのは昔の家です。人が一杯だったのも昔の家です。でも今、勇気を出して働いて、インマヌエルの愛を信じて神の家族を建て上げる。その新しい家の栄光は、昔の家に勝るのです。愛には勇気が必要です。信仰を実行に移すには勇気がいります。でもそこに神様が共にいて下さって、困難に向き合う勇気を下さり、愛の闘いをなさせてくださる。暖かな部屋の揺りかごでなく、馬小屋の餌箱で担われた主の愛が、たとえわずかでも映し出されて、見た目は負けているように見えたとしても、人から笑われ、冷たい目で見られ、我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになられたかと祈るときでも、でもそこでこそ知るのです。神様はわたしと共におられる。勝利は復活と共にある。人には理解できなくっても、キリストの勝利は揺るがない。だから主と共に働こう。神様の家を共に建て上げ、この家が栄光で満ちるのを、神の家族の愛と喜びで満ちるのを、一緒に見させて頂こうと、勇気を出して働ける。なすべき愛の働きをなせるのです。ここに教会が建っているのも、私たちが救いを受けているのも、誰かがその業をなしたのです。それを主が喜んで下さって、救いの栄光を満たされたのです。そこに神様の栄光があります。御子の笑顔がそこにあります。クリスマスはいつでもそのように来るのです。