11/11/6礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:24-30、ホセア書11章1-4節 「愛は低いところへ流れる」

11/11/6礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:24-30、ホセア書11章1-4節

「愛は低いところへ流れる」

 

説教者が好んで説教する御言葉というのがあるように思います。鈴木先生でしたら放蕩息子やタラントンの譬えでしょう。ペトロたち、使徒たちにも、そういう御言葉ってあったでしょうか。あったとして、もし今読みました、ここ、ここが好き、もう何回も好んで説教をしたというのであれば、偉い、本当の意味で偉いと思います。

随分恥ずかしい場面です。すぐ直前にイエス様が、この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約であると言われたときには、皆、固唾を飲んでイエス様を見つめて、その杯を飲んだに違いないのです。でもイエス様が、この中にわたしを裏切る者がいると言われるや否や、誰がそんなことをしようとするのかと論じ始める。それはまあわからんでもありませんが、それがどういういきさつで、自分たちのうち誰が一番偉いろうという議論になるのか。それだけで恥ずかしい場面ではないでしょうか。例えば聖餐式の礼拝が終わって報告のとき、誰彼となく声が上がって、何か私はここで蔑ろにされている気がする、もっと丁寧な扱いをされて、敬ってもらうべきじゃなかろうか、いや、俺こそそうだ、いいや、私こそもっと尊敬を払ってもらってしかるべきだと、やんややんやと紛糾したら、ま、イエス様はそこで皆から無視されているということでしょう。イエス様置いてけ堀の議論。イエス様の目の前で、しかもイエス様がご自身の死を語られるそのところで、私こそもっと注目を受けてよいのにとか議論する。ひょっとしたらイエス様まだ杯を持って、皆の間に立っているかもしれんのに。しかも使徒が、です。イエス様に選ばれた使徒として、この場面が、聖書として皆の前で読まれるというのは、本当に恥ずかしかったのじゃないでしょうか。いやあ、あんときは俺も若かったから、というのでもないと思います。むしろ使徒たちは自分たちがイエス様に選ばれているということの意味を忘れんように、何度も何度もこの恥ずかしい出来事に立ち返っていったのではないかと思うのです。これが、イエス様にご自分の命を捨てさせねばならなかった私の罪の姿なのだと、この恥ずかしい罪の姿を忘れるときに、私たちの間で私をもっと認めろ合戦が始まるのだと、むしろ身に刻んでおったのではないでしょうか。

自分のほうが偉い。稼ぎでは、この人にかなわないけど、器量では、この人にかなわんけど、人格的にも、この人にかなわんけど、精神的には私が勝っちゅうとか、何の得にもならんことを私たちはやっているのかもしれません。損得ってことではないでしょうけど、そういう言い方のほうがわかりやすいとも思います。誰の得になると私たちは考えるのか。誰の得のための偉さだと考えるのか。偉いと訳された言葉は、より偉大である、より大きい、あるいはより重い、横文字でメガという言葉の比較級です。超大盛りのメガ牛丼とかありますし、例えば運動会の綱引きのときメガの人がおったら、しめた、得したって思う。稼ぎがメガな家の子は塾に行けて得とか思う。イエス様も、偉くなったらいかん、メガはいかんというのではありません。メガな人はおる。でも、この世のメガな人々が、メガな力を自分のために使って、自分の損得を考えるのに対して、イエス様は、それはでも違うろうと言われるのです。使い道を間違うちゅうろうと。あなたがたの中でメガな人、多く与えられている人は…昔からそうだったのでしょう。若い人がよく、使いっ走りをさせられる。夏、馬路村の山奥の家とかにトラクトを配りに行くとき、若い夏期伝道実習生に、よし、走ってあの家に配って来いと、ゴンゴン走らせたりする。そのときの態度で、お、今年の神学生は見込みがあると、わかったりします。キリスト者とは、僕であることだとわきまえている神学生や若い伝道者は、ゼエゼエ言いながらも、喜んで使いっ走りを引き受けて、それを見て、よし俺もと無茶をして、妻から、あんたもう中年ながでと引導を渡されたりします。が、それならそれなりに蓄積されてきた経験や能力が与えられてますから、今二つの教会の牧師を任されておるのだと思うのです。体力であろうと何であろうと、多く与えられているのなら、多く、主の使いっ走りをさせられたらよいのです。自分に与えられている分が何であろうと、与えられているのは主のためです。主が私たちを通して、人々に仕えることを求めておられる。自分を裏切ろうとしている弟子にさえ、自分はどうなったってかまわない。あなたのことが心配だ、あなたを滅びから救いたいんだ、あなたの犠牲になってもいいんだと、ご自分を差し出してくださった。そして私たちが自分の損得ばかりに心奪われ、この世と一緒に裁かれないようにと、神様のご支配のあり方を、私たちに委ねても下さいました。あなた自身も身につけなさいと、人に仕える生き方を、私たちに委ねて下さった。そこでも得はあるのです。仮に私が走らされて、しかも十字架に登るような坂道を走らされて、肉体的にも精神的にも生活の面でも損しても、あなたが得してくれたらいいという生き方、得と言うより、得る、ということでしょう。あなたが本当の命を得るためなら、あなたが永遠の命を得るためならと、自分の命を使ってしまう。偽物、まがいモノを掴むのでなく、その手に、本当の命を掴んで欲しい。そのためには私が損をしたってかまわないと、主が苦しみをさえ忍ばれる。

そのご支配のあり方を、イエス様は、ここで、わたしの国、わたしの支配と呼んでおられます。これから十字架によっていよいよ明らかにされる神の国のご支配を、弟子達に、はっきり見ていて欲しいということもあったのではないかと思います。こういう支配だ。これが人々を治め導くということだと、ヨハネ10章の言葉で言えば、主が、わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てると言われた。改めて考えて欲しいのです。飼っている羊のために、しかも100匹おって1匹おらんなって、その1匹の羊のために命を捨てる羊飼いになれますか。イエス様は、なれると言われた。わたしはあなたのために命を捨てて、その罪を背負い切って赦す、だってあなたはわたしの羊だと、神様が、十字架でボロ切れのように捨てられて死んで下さって、だけどわたしは損をしたとは思わない、あなたがこの食卓に共についてくれて、一緒に永遠を過ごせるのなら、永遠に家族の食卓を囲めるなら、わたしはこの十字架の坂道を登っていくと、まことの支配を見せて下さった。

ペトロたち使徒たちは、このイエス様の言葉を最初聴いたとき、まだピンと来てなかったかも知れません。まだ自分に固着しておった弟子の姿が来週の御言葉にも見れるのです。私は踏みとどまりますと。けれどそんな私は木っ端微塵に吹き飛びます。ペトロも他の弟子達もイエス様を見捨てて逃げるのです。でもそんな使徒たちであってもイエス様から離れられないで、やっぱり使徒として、教会の土台となるのです。主がこう言って下さったのは、やっぱり本当なのだと思うのです。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。肝心なところで踏み越えたのに、あのとき踏みとどまれんかったのに、イエス様は、それでもあなたが今まで踏みとどまってくれたから、この愛をあなたに委ねると言って下さった。どうして踏みとどまったのか。強かったからではないと思います。本当に捨てられるほど偉くなかったからじゃないでしょうか。皆さんに率直に問います。何故主を捨てんのですか。主を捨てて生きられるほど偉くないからでしょう。それで良いのだと思います。その私たちに主は愛を委ねて下さった。その主の愛の偉大さの前に自分の小ささを認めたときに、キリストの奇跡は起きるのです。キリストが私を主の僕として使われるのです。