11/11/13幼児祝福礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:31-34、詩編41篇2-4節 「倒れても立ち直れ」

11/11/13幼児祝福礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:31-34、詩編41篇2-4節

「倒れても立ち直れ」

 

先ほど共に捧げました祈りの中で、まことの勝利者とならせて下さいと祈りました。嘘の勝利ではない。老いていようと年若かろうと、この世に生きている間が一体どれくらいであるかはわかりませんが、わずか死ぬまでの間だけ自分を勝ち誇るような虚しい勝利者ではない。死んでなお、いや、死んで復活を迎えた時に、朽ちない勝利の冠を与えられるまことの勝利者とならせて下さいと、真剣に祈らない者がおるでしょうか。世に流されず、倣いに染まず、かと言って我流自己流というのでもない。我流こそ世の倣いの本流だとも思います。でも流されやすいのが世の常でもある。だからこそ祈る。イエス様も、弟子たちのため、私たちのために、祈らないではおれんのです。

祈るというのは、私たちを造られた天の父に願うことです。お願いばかりで言うことは聴かんじゃいけませんが、弱さ苦しみがあればこそ、願わずにはおれんのが、祈りの本質でもあるでしょう。イエス様もまた父に祈り願われた。しかもご自分のためにというのではなく、弟子たちの苦しみのために祈られた。でも当の弟子たちからしてみたら、そんなおせっかいはいりません、ということではなかったでしょうか。自分は大丈夫だと思っているのです。それもまた、造り主をわきまえず、自分をも知らない世界の現実かも知れません。自分は祈られる必要などないと思う。願わくは、今日祝福を受けた子供たちが、そう思わないように育って欲しいと心から願います。

どうしてイエス様はペトロ達のために祈らなければならなかったか。サタンの願いがあるからです。キリストは一生懸命に弟子たちを育てて導いてきたけれど、ぜんぜんダメでしょう、ちょっとふるいにかけてみたらわかりますよと願うサタンに、神様が、わしはそう思わん。じゃあやってみろと許可された。手塩にかけ育てた小麦も叩いてふるいにかけてみたら案外中身がスカスカで、もみや土と一緒に落ちることもある。自信過剰の人間の心を全部見透かしているような願いに対して、じゃあ弟子たちは、それに対抗して父に祈り願うほどの信仰があったかというと、ない。ないから祈らないし、この後もイエス様から、誘惑に陥らないように祈っていなさいと言われるのに、寝てしまう弟子たちの姿が露にされます。ふるいから、こぼれ落ちていってしまうのです。

「しかし」と言われるキリストの恵みが、ここにガッと割り込んでこんかったら、私たちもまた、落ちて吹き飛んでしまっていたでしょう。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈ったとイエス様が本当に祈って下さったから、父の前にひざまずかれて、願い懇願して下さったから、落ちて倒れても、立ち直るのです。キリストが命をかけて祈られたから、だから、倒れても立ち直るのです。キリストが私たちの十字架を負われたとは、そういうことでしょう。私たちもまた復活するため、倒れまた死んでも立ち上がるため、神様が人となられて十字架で死なれ、復活されて、これはあなたの復活だから、わたしと結ばれて一緒に起きよと呼びかけてくださる。どんなにひどい倒れ方をしてしまっても、だから、人間は立ち直るのです。

無論、自動的にではありません。自分の足で立つのです。立てる力をキリストが注いで下さるからです。子育ても同じ面があると思います。甘ったれにする育て方は、いたしません。親を信頼していいんだ、私は受け入れられているんだという、言わば健全な甘えの意識は大切でしょうけれど、人にやらして自分はせんのは、甘ったれであって別物です。甘えは信頼の形ですけど、甘ったれは自信の塊です。自立をするように育てることは大切です。自分の足で立つときに自分の弱さだってわかるからです。自分の弱さをわきまえてこそ、本当に立つこともできるからです。自立ではあっても、自力ではない。立てる力を与えられてこそ、私は立つことができるのだと、親や先生や友人や隣人を、そして誰よりそのような愛の育みを与えてくださり、互いの弱さをも受け入れられる愛の力を与えてくださる、天の父の前に立つことを、自立と呼ぶのではないでしょうか。本当の自立は、人を立たせることさえもできるのだとキリストが祈ってくださった。立たせてくれと、力づけてくれと、愛の力で祈ってくれた。キリストを信じるということは、この愛を信じるということでしょう。たとえ倒れてしまう時にも、私はキリストの腕の中に倒れていける、一人で倒れるのではないのだと、倒れて尚、神様の愛を信じて倒れられる。それは自信の対極です。信仰とは、信じる自分が主体ではなく、それほどにキリストの救いが信頼に足るから、キリストを信じられるのです。欧米では、夫婦関係の立て直しセミナーというのがあって、例えば配偶者に自分の真後ろに立ってもらって、その相手を信じて、自分の全体重をかけて後ろに倒れるという実践がある。それをネタにした米国アニメで、セミナーに参加した人々が、バタンバタンと倒れてキャッチしてもらっている列の最後で、主人公の妻が、私も本当に倒れるのですか?と誰もいない後ろを指差す。次の場面で、夫は別の場所に逃げて釣りに興じている。セミナー主催者が、いいえ、あの結構ですと頭を抱えているブラックジョークを見たことがあります。信仰が鰯の頭でも何でもよくて、信じる自分が大事なら、誰もいないところに信じて倒れて、頭を打って泣くことになる。アニメであれば笑えても、笑えない現実も多いのです。実際にそうやって自分を押し通し、自分を信じたつけがまわって泣く子供を皆さんも見ることがないでしょうか。大人でやるのはペトロだけだと、一体誰が言えるでしょうか。

ペトロは自信満々です。私は大丈夫だと言い張るのです。死ぬ覚悟さえしていると訳された言葉は、自分の足場は固まっているという言葉です。ペトロは立っているつもりです。自立した信仰を持っているから、あなたのために死ねるとさえ思っている。イエス様のためなら死ねると言う。でもイエス様がこの後捕まり、お前もあの男の弟子だろうと問われたときに、あんな奴は知らんと三度も繰り返す。何故か。自分に立って、神様の恵みの御言葉に立ち損ねたからです。イエス様が、あなたは立ち直って兄弟を力づけてくれと願われたのに、結局ペトロが立っておったのは、自分の思いの上だったからです。ならイエス様のために死ぬのではないでしょう。自分のためです。なら人間は本当に自分のために死ねるのか。自分のためにも死ねんのが弱い人間じゃないでしょうか。自分のための勝利者にペトロは三度もなり損ねてしまう。

けれども、それでよいのです。ペトロは主のために生きるからです。兄弟を励まし力づけるため、主に生かされているからです。自分の足下が崩れたときに、真実の足場に立てるのです。キリストが私たちを丸ごと担ぎ上げ、十字架ですべての罪を背負い切られて、あなたはこの赦しに立ってよいと私たちのため死んで下さり、死者の中から復活されて、あなたも復活の命に立ちなさいと、ご自分の命を、私たちの足場として下さった。人はキリストに立って良いのです。キリストのようにすら生きられる。それがペトロに願われた、兄弟たちのために生きるという命です。私たちに願われている命です。痛みを知る者となれたからです。弱さを受け入れられるからです。批判する代わりに祈ることができる。サタンの弟子になるのではなく、この兄弟を助けて下さいと、イエス様のように祈ることができる。祈ってくれと言われるのです。力づけてくれと言われたのです。人はこのためにこそ生かされて、キリストを足場として生きられる。今日祈られた子供たちまた私たちも、互いのために祈って生きる神の子の祝福に生きれるよう、主に祈られているのです。