11/10/30礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:14-23、出エジプト記24章3-8節 「主の死を感謝する礼拝」

11/10/30礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:14-23、出エジプト記24章3-8節

「主の死を感謝する礼拝」

 

エルサレムにある一軒の家の二階広間に、過越しの食事が用意されました。すべて準備は整いました。その食事の席に、イエス様が、さあ、時が来たから、行こうと、率先して進まれる。弟子たち、特にここで、使徒と呼ばれる12人の弟子たちは、今までおよそ3年間、いつもそうやってイエス様の後姿を見ながら、その後に着いていっておったに違いありませんが、このときは、イエス様の言葉や後姿に、ますますイエス様の覚悟を見るような思いがあったかも知れません。もう何時間もせんうちに、イエス様は弟子に裏切られ、ローマ兵たちに連行されて、十字架に一直線に向かわれるのです。その時が来た、そのことはもう定められているのだ、人の子は定められた通りに去っていくのだとすらイエス様は言われる。覚悟の決まった、腹の据わった主の言葉です。イエス様の今までの全ては、まさにこれからの時のためにこそあったとさえ言えるのです。この時のために、わたしは人として生まれてきた。この時のために、今までの30数年間の全てがあった。そのゴールに向かっての最後の時。言わば、ヨーロッパの古い街で、礼拝が始まる15分前に、ゴーンゴーンと教会の鐘が鳴る。そのような時の音をイエス様は聴いておられたということでしょう。そして向かわれたのはイエス様にとっての最後の晩餐、弟子達と共に祝う、過越の食事の席でした。

この食事、教会でいう聖餐式の食事を、イエス様は、あなたがたと共にしたいと切に願っていたと言われます。直訳は切なる願いを切望していたというほど熱烈に求めておられた。聖餐式を共に祝うというのは、イエス様の熱烈な思いなのです。無論、そのためにはイエス様の弟子となる、いや、もっと深い交わり、関係、切れない絆で結ばれる、洗礼を受けることを主は求めておられます。洗礼の水は、新しく生まれることの象徴です。神様の子供として、洗礼の水と共に破水して、新しく生まれる洗礼を受ける。それは人となられた神様、人の子であるイエス様から、わたしの兄弟姉妹と呼ばれるほどの、家族の関係に入る、それほどの絆で結ばれるのです。そして初めて聖餐の食事を共にすることができる。旧約聖書で過越の食事が制定されてから1500年、ずっと過越の食事は家族で祝われてきました。家族単位で行いなさいと言われています。貧しくて小羊を用意できない家があったら、その家の分も用意してあげて、どうぞご家族でうちに来て下さい、そして過越の食事を一つの家族として共にしましょうと、とにかく家族単位で食べました。家族を神様は重んじられます。十戒に、あなたの父母を敬えと言われたほどの神様です。私はキリスト教にするけど、あんたらあは好きにしいやというような、およそ核家族の自由と呼ばれるようなものを神様は信じません。いつでも家族を目指されます。聖餐共同体とも呼ばれる教会が、そこで家族を目指さなければ、教会の何たるかも、聖餐式の何たるかも、壊されているということでしょう。昨今、教団で問題化されている聖餐問題も、これは神様の家族の食卓なのだということがわからなくなっていることを、如実に現していると痛感します。個人の自由で家族はやっていけません。個人の自由や思いなどでは、到底切ることのできんもの、それが家族の絆だからです。食卓に連なるか連ならんかは自分で決めるというのは、自由ではなく、家族を無視したわがままでしょう。イエス様が、これはわたしの血による新しい契約だ、契りだ、絆でお互いを結ぶんだと言ってくださった。この新しい血による絆。この血が、全歴史、全世界を貫く全教会の一人一人の内に脈々と流れていて、皆、イエス様と一つに結ばれている。全員、ただこの一つの絆で結ばれている。それが聖餐式の土台です。

それほどの血を流されることを、イエス様はまさに目前に控えているのだと、このとき悟っておられましたから、そら、ものすごく切望されているのです。この過越が、一体どういう意味であったか、思い出すなら、わかるはずだと、1500年間続けられてきたこの過越の食事は、この日のためにあったのだと、まさしく神様の愛の歴史が、全部ここに集約してきたという思いをこめて、イエス様が「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言われた。先週も申しましたが、過越とは、神様に背く罪人の犠牲として、小羊が身代りに殺され屠られて、血が流される。その血を塗った家の玄関の前を、神様の裁きが過ぎ越していくことを意味しています。その過越が、神の国で成し遂げられる、直訳は、神の国で満たされる、実現し、成就するという言葉です。過越が神の国で実現し、成就する。成就せんかったら、私たちは死後、神様の前で罪の裁きを受ける時、裁きを全部受けなければいけない。永遠の有罪の判決を受けなければならない。その有罪の判決が、神の国での、神様の前での永遠の法廷で聞くべき永遠の判決が、私の前から過ぎ越して、私の横に立っていてくださる、私の唯一の救い主、イエス・キリストに全部突き刺さって行って、そのときに、イエス様が、その判決をわたしは既に受けました。あの十字架で、わたしは幸生のために、幸生の全部の罪と恥とを背負い切って、幸生の身代りに永遠の有罪の判決を身に受けて、父よ、あなたから見捨てられ、わたしは裁かれ死にましたから、だから、このことは過ぎ越しました。もはや幸生は無罪です、この子はわたしの兄弟ですとキリストが私の横で言って下さる。この過越が神の国で成就し成し遂げられるまで、イエス様は、ずっとわたしたちのために執り成し続けていてくださる。そして、その日をこそ、何よりも熱烈に待ち望んで下さっているに違いないのです。幸生が早うここに来て、一緒に神の国の祝いの席に連ならんろうか、まあその前に、幸生にはやらないかん務めが、任務があるけんど、それが終わって一緒に食事する日を、わしゃあ切望しゆうぜよと、今や十字架を終えられて復活してくださったイエス様がどんなに私たちを愛して待っていてくださるか。

このイエス様の愛をこそ、聖餐式においては思うのです。思ってくれとさえ言われるのです。わたしの記念として、と言われると、正直私はどうもしっくりこんものを覚えます。日本語で記念と言うと、何か過去を偲ぶようなイメージがあって、いやあ、イエス様ってえい人やったねえと、今生きてないような響きがあったり、偉い人の記念碑を建てて、こんなにもすごいことをしましたと、その人の偉業を称えるような気がしてなりません。想起してとも訳されますが、これもピンと来にくい。ならば訓読みで、思い起こす。思いを、起こして、忘れたらいかんで、わたしがどんなにあなたを愛しちゅうか、わたしがどんな愛をもって、あなたを今も執り成しているか。ついわたしへの思いが意識下に沈められてしまうそのところで、わたしへの思いを起こして、ああ、そうや、イエス様が私の身代りに血を流してくださったがやき、罪を犯されん、この愛に応えて生きていこう、自分の自由とかじゃのうて、神様の子供として、罪の縄目から自由にされて生きていこう、罪の赦しにこそ生きていこうと、この新しい契約に生きてくれ、あなたはわたしによって、神の子ながやきと、イエス様が、ご自身の私たちへの愛のたけを、あなたはいつも思いよってくれと願われた。これがイエス様を記念する聖餐の記念の仕方なのです。いつも説教で繰り返し言う言葉で言うならば、聖餐式でパンを受ける時、そこでイエス様に改めて向き合うのです。体を投げ出してくださったイエス様だから、私もあなたにこの体を投げ出しますと、神の子として向き合うと言ってもよい。その体が、どんな体かをも、そこでは無視することはできんでしょう。罪に染まった、肉と呼ぶほうが相応しいのではないかと思われるほどの体、しかしイエス様が、そのあなたの身代りに、わたしが体を裂き、血を流したから、その体を真実の意味で労わって大切にして、罪から自由に生きなさいと、そこで私たちに向き合ってくださっている。そのイエス様に向き合うのが聖餐式での記念だとも言えます。イエス様の私への愛を思い起こして、イエス様への私からの愛の思いをも起こすときです。倒れておった愛が起きるのです。復活するための死と赦し、聖餐式であるのです。

ならばこそ、イエス様を裏切っても、どうせ赦されちゅうがやき別にという態度は許容されません。イエス様は、それは不幸だと言われる。愛が求められているからです。単なる法的な赦しとか、結果論ではないのです。問題はいつでも愛です。向き合うべきはいつでも愛です。思い起こすのは、主の愛なのです。その愛に背く時、人は不幸を自分でその身に招くのです。これはユダだけに言われた言葉でしょうか。そもそもどうしてここで言われたか。それがユダの運命だとでも言うのなら、言う必要はないのです。言うのはむしろ空気読めてないってことになりかねません。決してそうではないのです。悔い改めて欲しいのです。愛を起こして欲しいのです。ユダ、わたしはあなたを愛してきた。ずっと、一緒におったじゃないか。会話を交し、一緒に祈り、沢山の言葉を重ね合い、御言葉を聴いて、人々に仕えて、その愛を、わたしと一緒に歩んできた愛の記憶を、どうか思い起こして、わたしのもとに帰って欲しいと、イエス様は悔い改めを求めておられる。ご自身はどうでもよいのだと言われるのです。人の子としてお生まれになった、私たちの犠牲として裁かれ死ぬため、罪人の代表として、人として今まで生きてこられた人の子は、定められた通りに去っていくけど、それでよい。そのために生まれてきたのだから、覚悟はできている。それをこそ望んで生きてきた。それはユダ、あなたのためだと、あなたに不幸になってほしゅうないと、主は悔い改めを望まれるのです。裏切りはまだ回避することが間に合ったし、裏切った後でも、悔い改めることはできたのです。十字架の主が、すべての人に望まれるのは、幸いの側に来ることです。わたしのもとに来なさいと、十字架を背負われた小羊が言われます。あなたの罪はわたしが背負った。あなたの罪は赦された。だから過越が成就するため、わたしのもとに来なさいと、キリストが私たち全員に言ってくださる。神の子とされる洗礼を受けて、キリストの血による神様の家族の食卓に連なって、過越の祝いをするのです。キリストが罪を赦して下さったのです。この愛が、私たちを神の子の命に起こすのです。