10/8/29朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書9:57-62、エレミヤ書20:7-9 「神と人の溝は埋まるか」

10/8/29朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書9:57-62、エレミヤ書20:7-9

「神と人の溝は埋まるか」

 

三週間前の礼拝で、夏の伝道実習に来ていた大橋神学生に説教をして頂きました。大変フレッシュな献身者の姿に皆さんも気持ちを新たにされたのではないかと思います。礼拝に先立つ木曜日の祈祷会では、彼に証をしてもらいました。伝道者として立ちなさいと、どのように神様から召し出され、また、どのように神様の召しに献身したか。実は、彼の祖父が牧師で、大学卒業後どうしたら良いかアドバイスを求めたそうです。すると、いずれなくなるもののためでなく永遠の命に至る食物のために働きなさいと、ヨハネ福音書の御言葉を頂いた。これは神様の召しの言葉ではないかと感じ、よし牧師になろうと決意して、東京神学大学の入学試験も合格した。けれど依然として変わりない、ほどほどの生活を続けていた息子に、今度はお父さんが、今までと何も変わらないそんな心構えなら伝道者になるなと厳しく言われた。牧師家庭で育った父親です。おそらくはご自身少なくとも一度は真剣に考えたであろう伝道者としての道に、息子が進もうとしているが、しかし、これでは神の国を言い広める者として相応しくないのではないかと、まるで今日の御言葉のイエス様のように厳しく言われたのだと思います。そこで悔い改めて彼がどうしたかというと、東京神学大学に電話をして、相応しくないから入学を辞退しますと言った。まあストレートな方です。すると今度は牧師に呼ばれた。こう言われた。あなたは神様から呼ばれて、神の国の働きにつこうと献身したのだから、イエス様の御言葉で言えば、もう、鋤に手をかけた者である。その者が、親に言われて、ああ、確かにこんなんじゃ私はダメだと後ろを振り返って、しかも鋤から手を離そうとするのは、それこそ相応しくないだろう、神様に呼ばれて、はいと言って献身して鋤に手をかけたんなら、ひたすら前を向いてその道を歩みなさい、相応しくないところがあると気づかされたなら悔い改めれば良い。悔い改めた罪は赦される。だから悔い改めて、献身の道を進めと励まされた。それでまた彼は東京神学大学に電話をかけて、今度は、入学辞退の辞退を願ったら、意外にも許可されて入学できたと、中々ユニークな献身の導きを証していただきました。

そしてこの証こそ、今ともに聴きましたイエス様の厳しいお言葉を、活き活きと説き明かす、生きた説教だと思うのです。イエス様のお言葉は確かに厳しいと思います。あなたのその心構えでは、わたしに従ってくることはできないと、今その御言葉を聴く私たちからすると、まるで私はキリスト者失格だ、私は神の国に相応しくないのではないかと、もう礼拝も来ないほうが良いのではないかとすら、思われるかも知れません。あるいは洗礼を受けようかどうしようかと考えている方なら、私は洗礼を受けるのに相応しくないと、やはり思われるのではないかと思うのです。前にも言いましたが、私自身、こんな相応しくない者が洗礼を受けるなんてよそうと、牧師に辞退を願ったのです。そしたら、いや、相応しくないから、その罪を洗い流し、清めて頂くために洗礼を受けるんだ、イエス様によって相応しくされる以外、私たちの決意や努力で、自分を神の国に相応しくすることなどできんだろう。だからイエス様が十字架で流して下さった罪の赦しの血潮の清め、洗礼の清めを受けて、自分を捨てて、新しく生まれ変わって生きるのだと言われたのです。目が開かれました。人間のことを考えていて、神様のことを考えてなかったと悔い改めて、そして洗礼を受けました。

じゃあ洗礼を受けて、もうそれからは何よりも、まず神の国のことを考えて行動し、まず自分のこととか、まず生活のこととか、全部、そういう人間のまずを捨てるキリストの弟子、神の国に相応しい神の人になったか。頭のイメージでは、主よ、あなたの行かれるところなら、どこにでもついてまいります、とか思っていても、実際には自分を第一にしている現実に、たとえば誰かを傷つけて、ハッと直面し、あるいは礼拝説教で自分の姿を見せられて、神様ごめんなさいと悔い改める。それがイエス様のここで求められることだと思うのです。相応しくないから、もうやめというのではない。あるいは、どうせ相応しくなれんから、そのままで良いから、何も変わらなくて良いから、ほどほどに信仰をしてなさいというのでもない。断じてそうではないのです。イエス様の求めは明確な厳しい求めです。あなたは悔い改めてまず神様を求めなさい。神の国の側の人間になりなさいと求められます。それが悔い改めるということ。生き方、考え方、自分の一番は間違っていたと、自分を改めるということでしょう。一番を一番とする厳しさがあるのです。

まず家族に別れをという願いも、まず父親の埋葬を済ませてからという願いも、人間として当然の願いです。当然のまずです。第一に、一番に、言わば人情を考える。場面としては、次に72名の弟子の伝道実習が控えています。おそらくはその候補者でしょう。相応しくない実習生を送れるでしょうか。送られてきたら迷惑です。礼拝説教もさせません。神の国のご支配を伝え広めるのが伝道なのに、神の国から人を遠のけてしまったら、教会として取り返しがつきません。だから当然厳しくなります。まず神の国を言い広めなさいと神様の私たちへの死ぬほどの思いを、まっすぐに映し出す証人、神の国の献身者が求められます。そんなまっすぐな人というのは、しかし、時に煙たがられることもあります。えいじゃか、ほどほどでかまんじゃか、私に構わんといてくれと思われて、迫害も覚悟せないかん。事実イエス様はそのために殺されますし、それでもそこにしか救いはないと、十字架目掛けてイエス様一行は一直線に進まれます。十字架の愛の道を、曲げてしもうたらいかんのです。ならばこそ、実習に出かける弟子たちが、もしかすると今生の別れになるかも知れんと、家族との別れの時間を過ごしたいと願うのは当然だと人情としては思います。

でもそこに、神様と人間との間に横たわる溝、深い溝が、くっきりと見えてくるのです。大橋神学生の祖父が、永遠になくならない食物のため、永遠の命に至る食物のために働きなさいとアドバイスされた、その永遠の重みが、ここで明らかになるとも言えます。人間は永遠ではありません。人は罪ゆえに滅びます。だからと言って、無責任に生きて良いはずもありません。その責任を取らされるからです。永遠の裁きがあるのです。永遠に生きることは罪故に閉ざされていて、そして聖書は永遠の死を語ります。そこに向かって生きるのでしょうか。もしも神様など存在せずに、神の国など考えなくてよいなら、永遠の死と快楽は紙一重です。裁きがないからです。各自、自分の責任の重みで、自己責任で生きて死ぬ。それだけです。しかし神様は生きておられます。キリストを私たちの身代りに十字架につけられた神様は生きておられて、あなたは永遠に生きなさいと言われます。死ぬな、生きよと求められます。死んですべてが終りなら、食べたい食物を食べればよい。自分のまずを生きればよい。でも永遠が待っているのなら、神様が生きておられるなら、あなたは罪を赦されて、永遠の命に生きなさい、神の国の救いを得なさいと、十字架で私たちの罪を赦して死なれた方、否、復活されて、いまわたしのもとに来なさいと、わたしに従って来なさいと、死の扉をこじ開ける鍵を下さった、救い主イエス・キリストが言われるならば、永遠に生きるほかないでしょう。他に生き方があるのでしょうか。他の死に方もないでしょう。キリストに抱えられて死ぬ以外、あるでしょうか。神様に、死んでもらわなかった人がいるのでしょうか。そのキリストが言われるのです。あなたは死の支配から出て行って、永遠の、神の国のご支配を言い広めなさい。死は重い。でも、ならばこそ、その死の力を打ち破り人々を死から解放する、永遠の神の国の福音を、あなたは人々に言い広めなさい。言い広めるという言葉は、全てを貫いて伝えなさいという言葉です。ならば彼のお父さんの亡骸を埋葬した家族や親戚にも伝えないはずがないのです。どうして埋葬せんかったと責められても、反抗的に反論することはないでしょう。涙の説得にならんでしょうか。おそらくは、この人の場合、家族や親戚の中でこの人だけが、イエス様を信じたのでしょう。他の人々は、神様との関係が切れていて、まるで何を言っても反応がない死人のように、神様からしたら、あなたは死んでいるじゃないかとしか言いようのない、悲しい、そして厳しい状態にあったと思われます。でもだからこそ、この人も選ばれたのではないのでしょうか。イエス様から呼ばれたのです。わたしに従ってきなさいと直接イエス様から選ばれたのです。ならばもう、従う以外にはないのです。親父のことは神様にまかせた。私は生きているあなた方のことが心配だと、永遠の、神の国の福音を信じてほしいと、それこそ神様の愛によって聖められた聖なる人情で、家族や知人たちを求めんでしょうか。人となられた神様が、文字通り必死になって私たちに永遠の命を求められる、その神様の人情が、むしろ伝わらんでしょうか。

人間はたとえ時間は償いえても、永遠は償うことができません。神様が死んで償いとなられんかったら、人間が救われることは不可能です。だから、人となられた神様が、生きている者と死んだ者とを裁かれる裁き主が、救い主となって死んでくださり、死を砕き、永遠を償う復活の命をご用意なさって、わたしに従えと招かれたのです。この方の十字架の死と復活を信じる者は、永遠に有罪という判決を、断じて聞くことがないのです。神様と人の間に横たわる永遠の断絶に、十字架の橋が渡されたからです。この永遠の橋の上を復活のキリストと共に渡るのです。

その橋をキリストに従って渡る者たちも、やはり相応しくないことは多いのです。でもだからこそキリストは、神の国は近づいた、悔い改めなさいと言われます。自分を捨て、自分の一番を捨て去って、日々自分の十字架を負って、わたしに従いなさいと言われます。そこに相応しさがあるのです。厳しくも、まっすぐに永遠を見つめて離れない、真実な神様の光に照らされて、逸れても戻って、歪んでも直されて、ようようでいいから、まっすぐに、十字架の道を進めばよい。キリストの召しに日々応え、毎日献身すればよい。キリストが私を呼ばれている。それが私の相応しさです。だから信じてこの道を、主に従って行くのです。