10/8/22朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書9:46-56、エゼキエル書18:21-23 「わかってくれ、友よ」

10/8/22朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書9:46-56、エゼキエル書18:21-23

「わかってくれ、友よ」

 

イエス様がご自分の弟子たちに心から求めておられるのは、力ある業でしょうか。それとも、心ある言動でしょうか。そこにこそ、力も宿っているのでしょう。キリストの十字架の救いを映しだす、神の国の力が宿る場所、それはキリストの弟子たちの心です。

その心の内を見抜かれて、イエス様が、どれほど落胆されたかと想像するのは、今日の御言葉を聞いて、そんなに難しいことではないと思います。大袈裟に溜息をつかれたとかは思いませんが、父よ、と、祈られはしたのでないでしょうか。弟子訓練の難しさを思います。キリストの思いをわかりがたい、人間の心の貧しさと、そして頑なさを思わされます。けれどもここが変わっていかんと、伝道が伝道にならんのです。

例えば、ここでヨハネの言動が映し出すのは偉いキリストです。偉いキリストが救うのは偉い人だけではないのでしょうか。ご自分を捨てて低くならない、小さな幼子として生まれたこともない、人の弱さがわからないのが、もし私たちの言動が映し出すキリストであれば、イエス様がヨハネたちにグルッと顔を向けられたように、何で、わかってくれんと叱られます。悲しげなキリストのお怒りを受けざるを得んでしょう。先週の、イエス様の十字架の決意をわからない弟子たちの無理解もそうでした。教会がキリストの教会として、私たちがキリストの弟子となるために、キリストのお心を映し出し、キリストを証して生きるために、キリストは、私たちに御顔を向けて下さるのです。親が我が子の目の前に顔を低くして、しゃがみ込んで、その子にわかるよう、自らを小さく縮ませるようにして小さくなって、小さなその理解にもわかるように、わかってくれと諭すように、キリストは小さな私たちに向き合われて、ここに神の国の支配があるろうと、弟子として扱って下さるのです。

今日の御言葉に明らかなのは、主がご自分の弟子たちを、優越感から解放されようとするお姿です。低くなれん心はくだらない心です。そんなくだらない心から自由にされて、己を低くして人に仕えるキリストの僕になさろうと、主は弟子の訓練をなさいます。教会の目指すところはそこなのです。これも想像するのは難しくないでしょう。洗礼を受けたキリストの弟子たちが、皆そのように自らを低くする僕として、人々にキリストを実生活で証できたら。優越感や、その裏返しの、優越感を持てんという劣等感から解放されて、あの人、自由やねえ、けんど自由に人に仕えるねえという僕の姿を、キリストの姿を見ることができたら、これに優る証があるでしょうか。またそれほどに、皆、優越感や劣等感に縛られて生きているのではないかとも思うのです。偉そうなことを言った後で、私はあのとき、どんな傲慢な顔をしていたのだろうと、特に最近では神学生の前で偉そうな顔をしてなかったかと恥ずかしく思うのです。けれど同時に、私はイエス様を信じて、弟子訓練を受けてきて、随分、劣等感から解放されたという思いもあるのです。勝気で完全主義の性分故か、自分の思い通りにならんかったら、自分が自分の願う自分になり損ねたら、酷い劣等感を抱いていました。でもイエス様を信じて弟子訓練を受けて、段々と解放されていった。そのことを証する機会に割合多く出合うのです。皆、通じるところがあるからでしょう。全般的に優越感を持っているということはなくても、誰しもこれに関しては、そして口には出さずとも、この人よりは私のほうが上だという自分へのこだわり、自負心がある。その心をイエス様が見抜かれるのです。

詳しい説明は省きますが、ユダヤ人とサマリア人の間にも、そうした確執、私たちのほうが宗教的に正しいという優越感を、互いに持っておりました。だからイエス様が当時ユダヤ教の神殿があったエルサレムを目指されておったのを知ると、何だ、出て行け、出て行け、私の思いを認めてくれんのかと気に入らん。優越感が傷つけられて、だったら私もあなたを認めん、あなたと関係を持ちたくないし、あなたの存在自体を否定したい、いなくなって欲しいとさえ思う。サマリア人だけでしょうか。ヨハネらもそうではなかったでしょうか。優越感へのこだわりが、仲間以外の人々を排除し、自分の救い主をも殺すのです。

曲がって定着した横文字日本語にプライドというのがあります。日本では自分の優越感を意味する言わば自己啓発セミナー用語です。自意識過剰な文化ゆえでしょうか。人より偉い、人に勝つ私への執着心をプライドと呼んで煽ります。が米国では、あなたを誇りに思うと、愛する人に対して用いられることが多い言葉です。例えば子供が自分の罪を認めたとき、あるいは自分の大切なおもちゃを、もっと小さい子に涙ながらにも譲るとき、親が、私はあなたを誇りに思うと言います。でも自分へのプライドは否定的に、傲慢という意味で用います。プライドとは、その人に私がどんな関係を持つのかを言い表す言葉です。愛ゆえに本気で関わる言葉です。だから自分への自己愛の関わりを傲慢と呼んで否定する。これからプライドという言葉を耳にしたら、人はどんな関係を深めるべきか、ぜひ考えて欲しいのです。どこに本気で関わっていくのか。何を誇って、何を本気で愛して生きていくのか。とうに言わずもがなですが、何をというよりは誰をでしょう。信仰の詩人、八木重吉の詩で、本が見当たらず、うろ覚えで申し訳ないのですが、我が子への思いを詠んだ彼の言葉が心に残っています。桃子、お前がぐずるとき、父はお前にげんこをくれる。けれどお前が、私の命を必要なときは、いつでもこの命をお前にあげる。この心の純真さ。愛の純真さが届かない人がおるでしょうか。私たちが、この純真さを本気で求め、あなたのためなら、私は死んだってかまわないと思う、本気の心を主が見られるとき、主ご自身が、わたしはあなたを誇りに思うとも言って下さると思うのです。良い忠実なわたしの弟子だ、わたしをわかってくれているあなたは幸いだ、純心なる者は幸いなり、その者は神を見る、あなたはわたしを見ていると、神様が神様として見られることに主は喜んで下さいます。そのお気持ちは、私たち誰もが、わかりうることだと思うのです。

イエス様が弟子たちに言われたように、自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負ってイエス様についていき、お従いしていく。そこに命が現れます。自分のために命を費やし、時間を費やし、お金を費やして、それで本当に幸せでしょうか。本当の命の費やし方、決して浪費しない何倍にも拡がって行く神の国に信託し投資する本当の命の用い方へと、キリストは、わたしの弟子になりなさいと招かれるのです。勝つとか、生き方のレベルが人より上とかから、自由にされる世界です。キリストの弟子として身を置くと、人は自由になるのです。私を私として愛されて、人と比べることをなさらんキリストの愛に、比べる虚しさを知らされます。比べて勝ったり負けたりしてきた愚かさ、幼児性を悔い改められます。そんな子供じみた小さな私をも、赦して受け入れてくださるために、神様は小さくなられたのだと、その大きくて、低く低くなられたキリストの弟子にされるのです。無論、愛が楽にはなりません。依然として自分も相手も子供じみていて、裁いたほうが楽なのです。それでも愛したくなるのが弟子でしょう。天から火を降らせるような裁きを願う愛の小ささと闘いつつも、弱さに苦しみ悩んでも、それでも心に主の愛が、キリストの言葉が生きていて、友よ、わかってくれるか、友よと、人となられた十字架の主から、わたしに従いなさいとの御声を聴くのです。そしたらキリストの名のゆえに、無視することはできんでしょう。

以前、看護学校の卒業生から聞いたのではなかったかと思いますが、入学してすぐ、もし可哀相だから助けてあげたいという思いで入学したのなら、今すぐやめなさいと厳しく言われたと聞きました。上から目線を戒められたのか、可哀相と思われる側からの気持ちをわかれと言われたのか、わからないわけではありませんけど、言葉足らずだとも思います。実際は丁寧に言われたのでしょうけど、憐れみの気持ちがなかったら、やはり相手が誰であろうと、人に仕えるということはできんと思います。憐れみは断じて、上から目線ではありません。その人の気持ちになるのが憐れみです。その人の不幸が苦しくて胸が痛んで、他人事として割り切れず、自分とは関係ないとは言えなくて、その人の隣人となることが、その人の犠牲とすらなっていいと思う気持ちが、憐れみであれば、そこに上から目線はありません。イエス様も、あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさいと言われたのです。ただそうであっても、そこに上から目線や、こんなにやってあげているのにという思いが同居するのが私たちの罪人である所以です。ならばこそ覚悟して、イエス様が弟子たちに言われたように、小さな人に仕えるために、自分も小さくなるのです。小さくなるキリストの弟子こそ、偉いと訳されていますが、直訳は大きい。愛が大きくなかったら自分を小さくはできません。優越感を捨てるのです。それは愛のため何の役にも立たんからです。自分を捨てて、本当に弱く小さくしてしまって、お前の助けなんかいらんとなじられ、誤解され、否定され、唾をかけられ、平手で打たれて、十字架で殺されたキリストのように、それでもその人を背負っていくとき、キリストがそこに必ず現れてくださいます。私たちがキリストの弟子であるとは、そういうことです。弟子として、キリストが選んでくださったのです。優越感に侵されたこの地に、人と比べて自分と比べて、命が値踏みされ捨てられる滅ぶべき死の土地に、キリストの名によって小さな羊が愛されるとき、そのために大きな愛の犠牲があるとき、そこに神の国の自由以外の何があるでしょうか。愛の犠牲となった弟子にも、キリストが現れてくださいます。この小さな者を受け入れたのは、わたしを受け入れたのだと、あなたはわたしの心がわかっていると、苦しみの中にも慰めがあります。また、受け入れられた人もまた、そこでキリストに出会わんわけにはいかんでしょう。そのキリストを、受け入れるかどうかは別です。そこで尚、自分のほうが大きいとすら人は思ってしまえるからです。でも、いつまでもではないでしょう。愛が最後には勝つのです。死んで葬られた愛であっても、キリストは生きておられます。神様の愛が勝つのです。復活の希望があるのです。だからキリストの弟子として、愛に歩めばよいのです。