10/9/5朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書10:1-16、イザヤ書40:9-11 「ここにも天使が」

10/9/5朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書10:1-16、イザヤ書40:9-11

「ここにも天使が」

 

人が救われ、洗礼を受けるということを考えるとき、必ずそこには、その人のため、神様から遣わされた人がいます。一人だけとは限りません。皆さんも、それぞれに、ああ、あの人も、またあの人も、私のため神様から遣わされた人だったんだ、そのように、キリストの弟子として主から派遣されて、用いられていたのだと、思い当たる方々がおられるでしょう。私のためにイエス様から遣わされてきた弟子の一人は、当時およそキリストの弟子といった、いわゆる敬虔な生活はしていませんでした。けれど今でも忘れられないのは、その彼が私にイエス様の救いを伝えてくれたという、伝道の不思議です。イエス様は伝道に遣わされるご自分の弟子たちを、狼の群れに送られる小羊と呼びました。餌食にされてしまうような、弱くて小さな小羊です。それ故に、財布も何も持たないように。お金も他の一切も、伝道の頼りにはならない。ただ神様の力に頼りなさいと、小さな小羊は、けれども、神の小羊であるのだと、伝道の何たるか、救いの力がどこにあるかを、小さな弟子たちに教えられました。その意味では、私のために遣わされた小羊も、当時この世の誘惑や罪の餌食になっていた弱い小羊であったと、今振り返って思うのです。それでも、その小さな弱い小羊を通して、私にキリストの福音が伝わりました。すぐに信じることはできませんでしたが、聖書を読み始め、教会に行き始めたのは、あの小羊のおかげです。また他の小羊たちも私のために遣わされていました。伝道のバトンをつなぐようにして、イエス様は私のためにご自分の小羊を送られました。送られ、遣わされた小羊からすると、遣わされたという自覚はなかった人も、あるいは、おったかもしれません。私たちもそういうことはあるでしょう。けれど自覚があろうとなかろうと、キリストはご自分の弟子たちを伝道のために用いられます。ならばこそ、礼拝の終りには必ず派遣の祝祷をしますし、今日も礼拝後トラクトを配りますし、婦人会では7月から伝道用のトラクトを若い求道の方々に差し上げています。中には、すごい緊張をしてトラクトを渡されたご婦人もおられたと思います。小羊ですから、イエス様のお気持ちからしたら、そうだ、怖れて当然だ、拒まれたらという怖れや不安は当然だ。でもそこで尚、わたしの平安をあなたは携え平和の小羊として遣わされて行くのだと、弟子を励まされるのです。

遣わすという言葉は、派遣の遣という字ですが、説教題にもしましたように、天の使い、天使の使という字も、意味は同じです。神様の御用をするために、使いとして私たちのため遣わされて来るのが天使です。前にかわら版でも書きましたけど、ある女性が米国に行ったおり、ホストファミリーと言って一般家庭に泊めてもらったら、そこのお母さんが日本びいきで、袖をめくって、ルック、見て、と腕を見せる。見たら漢字で、大使という刺青が彫ってある。若い頃、日米親善大使でもやっていたのかと思ったら、お母さん、満面の笑顔で、エンジェルと言った。いや、それは天使や、上の線が一本足らんと言いたかったが、英語力がないので、ン~フ~と笑顔で返したという話が新聞に載っていました。でも、大使も天使も同じなのです。祖国のメッセージを伝えるために、遣わされている僕が、大使であり、また天使です。その意味で私たちは神様から伝道の御用のために遣わされている天使であり、神の国の大使なのです。教会は、神の国の大使館だとも言えるのです。

よく、北朝鮮からの亡命を願って日本大使館に駆け込んでくる人々がおられます。大使館の中までは、その国の支配が及ばんからです。教会もそうです。イエス様が、弟子たちに託した伝道の言葉はこれでした。病の人を癒し、神の国はあなたがたに近づいたと言いなさい。神の国から離れ、神様のご支配でなく、人間の罪の支配の中に生きていて、病んでない人などおるのでしょうか。神様との平和を拒んだら、争いが当然あるのです。平和のメッセージが聞けないところでは、常に戦争がありました。今もそうです。だから、滅びるな、争うのはもうやめてくれと神様は、御子を犠牲にしたのです。十字架の上で死なせたのです。あの上で、神様が罪人の代わりに裁かれて、罪を赦して下さったからです。だから裁きではなく、平和をもって、平和のメッセージを携えて、あなたがたは人々のもとに行きなさい。神様から離れて当然という罪の支配から、霊的にも肉体体的にも、人々を解放しなさいと主は言われます。だから、人々に伝えるのです。神の国はあなたがたに近づいた。ここに神の国の大使館がある。ここに来たらわかる。神の国がわかる。神様がわかる。主は生きておられ、こんなにも近くにおられると、神の国の近さを、教会は伝えていくのです。キリストはここにおられると。

当時のユダヤ人には、そのままわかる言葉でしょうけど、これをそのまま今の日本で言っても、ん?とわかりにくいでしょう。神様のご支配があなたに近づいたと言い換えても、まだピンと来にくいと思います。どう言ったら良いでしょう。無論、一言だけ上手く伝えたら済むという問題でもありません。神は愛ですと書いた車が高知では毎日走っています。うんとわかりやすい言葉です。でもやはり、それだけで足りるとも思いません。どうしたらこの愛が、本当に今私たちを支えて下さっている、生きた愛だと証できるか。少し前にも引用した、八木重吉の言葉を借りると「自分がこの着物さえも脱いで乞食のようになって神の道に従わなくてもよいのか。考えの末は必ずここにくる」。私もそこに行きつきます。無論、托鉢修道僧になれば済むという話でもありません。お金だろうと車であろうと、何かに頼っている間は、神様のご支配に身を置くことは難しいのです。だから何も持たず、自分にも他の一切にも頼らずに、ただ神様に頼り生きることで、神の国は近い、こんなにも近いと、証したらよい。そうイエス様はおっしゃったのだと思うのです。

伝道の奥義がここにあります。それは先に言った小羊の伝道の奥義でもあります。すぐに獲物にされてしまう小羊が、どうして神様の救いを人々に伝えることができるでしょうか。足がすくむ。当然です。ひるんでしまう。無論そうです。天使のくせに飛べんのです。落ちたらどうしようと、おびえてしまう。中には飛んでいる天使たちもいると思われるかもしれません。何が違うか。信仰でしょうか。それもあるでしょう。でもそれは、成功するという信仰ではありません。もし神様の愛を拒まれても、それで終りじゃないという平安の信仰の故でしょう。72名の弟子たちも、拒否され、嫌な顔をされたとしても、あなたを拒むのは、わたしを拒むのだ、だから気にしなくて良いとイエス様は弟子たちを慰められ、だから、言わば、割り切って、次の伝道に心を切り替えなさい。しかし、神の国が近いことは、どうか知っておいて欲しいと、まったく見捨てるわけでもないのだと言われました。捨て台詞ではありません。そもそもこれが私たち教会の天使たちに託された、伝道すべき伝言なのです。神の国は近い。こんなにも近い。彼らの場合は、キリストが後からいらっしゃるのです。キリストに先立って遣わされたのです。私たちの愛する人々にも、どうしてキリストが語りかけて下さらないと断言することができるでしょうか。断じて断言はできません。だから伝言するのです。神の国は近いと。その人の心に、キリストの証を置いていくのです。キリストは確かに来て下さった。私を見て、わからなくっても、キリストは本当に来て下さって、ここにおられると、神様の愛の証を、そっと置いていったらよいのです。

だから主が私たちに言われます。行きなさい。わたしがあなたがたを遣わす。翼をつけた小羊たちが、今日も神の国の証に行くのです。