10/4/11朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書6:20-26、詩編146:6b-9 「信じてよい慰めゆえ」

10/4/11朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書6:20-26、詩編146:6b-9

「信じてよい慰めゆえ」

 

先週、復活祭の礼拝を祝いましたとき、一つ重ねて嬉しいことがありました。昨年の復活祭の、ちょうどその日、神様の御許に召された平岡姉妹のご家族が来て下さって、一緒に礼拝を捧げられたことです。主が与えて下さった復活の慰めに改めて共に与れたことは幸いでした。姉妹の葬りの前夜式で一緒に歌った讃美歌があります。404番の山路越えてという歌です。姉妹の愛唱讃美歌の一つでした。実は、この讃美歌は、平岡姉妹ととても仲の良かった、そして姉妹より少し先に主の許に召された槌橋姉妹の愛唱讃美歌でもあり、槌橋姉妹のお葬儀でもやはり一緒に賛美した歌です。お二人ともに、この歌から主の慰めを得ておられたのだと思います。山路越えて一人行けど主の手にすがれる身は安けし。少し飛びまして、道険しくゆくて遠し。こころざすかたに、いつか着くらん。されども主よ、われ祈らじ。旅路の終わりの近かれとは。この歌に自らの人生を重ねつつ慰めを覚える方は少なくないと思います。主の手にすがれる安らぎと慰めがあるのだけれど、道は険しく遠くに思え、いつになったら終わるのだろうと思うときがある。本当にそうだと思います。でも、だけども主よ、私はこの旅路が早く終わったら良いとは祈りませんと、神様から与えられた使命の自覚に生きている。これもまた確かにそうだと。まだやり残したことがあると思うこともありますし、ただそれが自分の自分の、という思いだけではなく、この人が救われるのをできれば見たいという祈りもあるでしょう。そして主よ、御心をなさせて下さい、あなたの御用に用いて下さいと最後はいつもそう祈る。その信仰の共感を、みな与えられているのではないかと思います。姉妹たちと祈っておったとき、そう言えば、神様の御心がなりますように、イエス様に従っていけますように、お導き下さいと、いつも祈っておられたと思い出します。弱く貧しい私ですけどと祈りつつ、主にお従いできますようにと祈られました。誰しもが、アーメン、私もそうですと、祈られるのではないでしょうか。

でも、どうしてそうやって祈ることができるのか。弱い私をと自覚をしつつも、それでも主に従っていけますようにと祈るのは、改めて思うと、これは相当に強い信仰の祈りではないかと思うのです。キリストが、わたしの力は弱いところに完全に現れると言われた御言葉をも思い出します。その力とは、具体的には、どういう力として現れるのか。やはり信仰の力、信仰の本当の強さとしてだと思うのです。それもまた、先の讃美歌の最後にこのように歌われます。日も暮れなば石の枕。仮寝の夢にも御国しのばん。すぐ前の4番では、主よ、すぐ天国に行きたいなどとは祈りませんよと力強い祈りをしながらも、でも疲れ果てて寝るその夢の中に、キリストがおられる神の国を想う。ここに信仰の秘密があります。遠くて近い神の国が、こんなにも近くあればこそ、道険しくて、我弱くとも、主の慰めがあるのです。

キリストは弟子たちを見て言われました。貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。神の国とは、神様が力と慰めをもって共にいて下さっているところ、と言っても良いでしょう。先に一緒に告白したように、いま神の右の座におられるキリストが再び帰ってこられるとき、完全な神の国が来ます。完全な慰めが来ます。罪が一切なくなって、涙も悲しみも貧しさもなくなる。その国は時間的にはまだまだ遠いのかもしれませんけど、距離的には、そんなに遠くはないのです。キリストが約束して下さったから、遠くはないと言って下さったから、キリストが、これをわたしはあなたに与えると、罪を赦して下さって、神の子にして下さったから、神様を信じて生きられる。神様と共にもう生きている。どんなに大きな慰めでしょうか。

貧しさが人を救うのではありません。弱いから救われるのでもありません。貧しさや飢えや嘆き自体が幸いだというのではないのです。その人を、憐れんで下さる神様がおられて、その人のところに、同じ弱さと貧しさを背負った救い主が来て下さったから、幸いが共にあるのです。神様が共におられる幸いです。病床にあっても、死の床にあってさえ、決して人間が奪うことのできない、すべて奪っていく死でも奪えない、神様の幸いがあるのです。

でもその幸いを、いや、今特に必要ないと拒んでしまうほど、慰めをこの世から受け取って満足しているお腹一杯で幸せな人々は、もしも、あなたがたがそうであったら、あなたがたは不幸だと主は言われます。注意して聴かなければなりません。イエス様は、弟子たちを見られつつ言われるのです。神様を信じてない人は不幸だなどと見下すようにではないのです。言い換えれば、あなたがたは、どこに慰めを得ているか。なくならない慰めを得ているか。死の床にあっても慰めがある、復活の希望に生かされ死ねる、その神の国の慰めをあなたが得るため、わたしはここに来たのだと、キリストが、ご自分の存在をかけて語られる言葉です。この世で幸せになりたい。誰もが願うことでしょう。でもどんな幸せを願っているか。神様と共に生きていく幸せか。それとも、ここに神様がおられたら大声で笑うことができないという幸せかは、私たち、毎日問われると思うのです。例えば、お笑い番組が私も好きで、たまに見ますし、落語は特に好きですが、一緒に笑えないときがあるのです。人の欠点や障害さえ、そして多いのは夫婦以外での性体験を笑いのタネにしていたら、見なければよかったと後悔します。でもそう言いつつ、実は気づいてないだけで、私も人を笑ってはいないか、笑いのタネにしてはいないか、イエス様から、幸生、今笑っているあなたは不幸だと、悲しまれてはいないかと、畏れを抱かざるを得んのです。主から与えられている慰めに、私は生き得ているのかと、主の慰めに生きているかと弟子たちもまた問うのです。弟子ならばこそ問うとも言えます。

そのようなキリストの弟子として、主よ、弱い私ですけどお導き下さいと祈る私たちを、キリストは、これがあなたの勤めであると、あなたは、神様から遣わされた預言者の幸いに生かされていると言われるのです。預言者というのは、読んで字のごとく神の言葉を預かって、これを宣べ伝え生きる者です。聖餐式の感謝の祈りで、おりを得ても得なくても、御言葉を宣べ伝えることができますようにと祈るのも、預言者としての自覚を祈っていると言えるでしょう。毎日の暮らしの中で、例えば先の、異なる笑いに遭遇したとき、世の中と一緒にゲラゲラ笑えるか。一緒に笑わないと人に気に入られないかもしれない。損をすらするかもしれない。そういう闘いをするところで、キリストの慰めに生かされて預言者として生かされて、神の国に生きる生き方を伝えるのです。その生き方を人は笑おうと罵ろうとも、そこには誰にも奪われることのない神の国の慰めがあるのです。

それはまた、貧しさを共にする慰めだとも言えるでしょう。キリストの憐れみに生きるのです。キリストが貧しくなられたように、そして、救って下さったように、自分の富に固執しないで、分かち合う慰めに生かされる。ヨハネの手紙一3章では、貧しい兄弟を憐れまない者には神の愛がどうして留まるかとすら言われます。神様から愛されなくなるというよりは、主の慰めに生きてなかったら、異なる慰めで満たされるから、主の愛を受けられないのです。その手紙はまた偽預言者についても警告をしています。その特質を一言で、兄弟を愛していないなら、そこでは神の言葉が語られてないと言うのです。先週の分区総会で、昨年度教会員を三名失い、経済的困窮に立たされているとの報告が土佐嶺北教会からありました。それに対して何とかしようと、分区は無視をしませんでした。私たちが神の言葉を語っているか、偽預言者になっていないかを切り分ける、分水嶺であったと思わされました。

富を分かち合う教会は幸いです。そこにキリストの預言がされます。自分たちがキリストに慰められているから、人々をも慰めることができるのです。貧しい人々は幸いなりと、本気で信じているのです。神様が憐れんでおられると、悲しみに心を寄せておられると、だから私たちも愛するのだと、キリストの愛を信じるのです。神は愛なり、キリストは主なり。この世で生きてはおりますが、我らの国籍は天にあり。神の国から遣わされた、預言者の幸いに生きるのです。キリストが共におられる慰めゆえに、隣人とも共に生きられる。神は愛ですと預言ができる。救い主キリストを証する、幸いな生き方があるのです。