10/4/18朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書6:27-36、ミカ書6:8 「だから救われます」

10/4/18朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書6:27-36、ミカ書6:8

「だから救われます」

 

先週、礼拝の後で紹介した本を皆さんご覧になれるよう掲示板に置いています。潮江教会の小道モコさんがご自分の発達障害をわかりやすく教えて下さっている、心からお勧めの素晴らしい本です。その中の一つのエピソードに、誰かが、コラッと怒られているのを聞くと、ビクッとして、まるで自分が怒られているかのように痛みを感じる、というのを読んで私も、あ、同じだと共感しました。針の筵にいるように感じて、そこにいるのがうんと辛くなります。神経過敏なのかもしれませんが、痛みを感じるということがなかったら、人間は相当に危険な状態にあるということも聞きます。このままではいけないということを痛みが教えてくれるというのです。そして、それは単に自分だけの危険ではなく、他の人についても、あ、危ないと痛みを覚える。

今朝の神様の御言葉に、敵を愛しなさいとありますが、これを読むだけで痛みを感じるということもあるのではないかと思います。色んな痛みがあると思います。イエス様がおっしゃるのには、天の父なる神様も痛みを覚えられるというのです。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。そこで憐れみ深いと訳された言葉は、人の苦しみや痛みを共にする、という言葉です。英語で同情・憐れみと訳される言葉をコンパッションと言いますが、これも痛みを共にするという言葉です。憐れむというのは、痛みを共有することだ。それは自然なことなのだと言って良いのかもしれません。そう言われたらイエス様がおっしゃった有名な言葉、人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。これも言わば当たり前で、ああ、確かにそうだなあと自然と納得する教えではないかと思います。黄金の律法で黄金律と言われたりしますけど、そんなに特別な教えではなく、例えば、小さな子が、これは私のおもちゃだ!と他の子に自分のおもちゃをゆずることを断固拒否するとき、でももし、お友だちがおもちゃで遊びよったら、それを貸して欲しいろう、ほいたら貸しちゃったらとなだめる。当たり前にやっていることではないかとも思います。でもその当たり前のことを、自分のこととして問われたときに、その当たり前のことができてない。誰かと敵対してしまい、憎しみを抱いたり、無視してしまう。この人がいなくなってくれたらどんなに楽かと。そして、そのことを知っているので、イエス様から、敵を愛しなさいと言われたら、愛してない痛みも感じてしまう。それもまた決して否定的な意味でなく、自然なことだと思うのです。愛のないところに痛みを覚える。それは、天の父がそうであるように、その神の形に私たちが造られた、そうした愛故の痛みは、むしろ大切にせないかんと、そうでなくって麻痺してしまって痛みを感じなくなってしまったら、相当に危険な状態にあると聖書は教えているのです。愛が欠けているのが、どんなに危険か。どれほど神様から離れておって、死へと向かって駆け下っているか。

だからイエス様は、あなたは天の父から離れてはいけない。天の父はそのあなたの痛みを知っておられ、その痛みをご自分の痛みとして苦しまれ、あるいは愛が麻痺して痛みすら覚えない愛の危篤状態にあることを、心痛めて憐れんでおられる。だからあなたも、その愛の痛みに共に生きてよい、神様の子供としての愛に生きなさいと言われるのです。

敵を愛しなさいとは、そういうことでしょう。すぐれた道徳律などというのでは断じてありません。愛は、そんな客観的なものではありえません。そんな客観的な愛で人を愛せるものでしょうか。また本当にそんな愛で誰かから愛されたいと思うでしょうか。私自身、この人を愛したいのに愛するのが辛い、敵意をもたれているとは思いたくないけれど、憎まれているのが辛くって、愛の痛みに苦しんで鬱を再発するかもしれんという不安に悩んでおったとき、私の慰めとなったのは、愛の闘いを闘っている友でした。この友だったらわかってくれると、おかしくなりそうなところで電話をかけて、苦しいと、言葉は多くありませんでしたが、ただ聴いてもらっているだけで、この痛みをわかちあってくれる友といるだけで、痛みと慰めの涙を流したことを忘れられません。

イエス様は、そのような愛の闘いに、痛みと慰めを共にする闘いに、あなたも一緒に加わって欲しいと言われるのです。神様はあなたがたの父なのだからと私たちを神の愛へと招かれるのです。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。あなたもまた、この愛の痛みを知っている。十字架の愛を知っているだろうと、主の愛の弟子として招かれるのです。

主は、敵を愛しなさいと言われたすぐ後で、具体的に、このようにあなたに敵対をする者をと言われます。一言で、あなたを苦しめる人、あるいは、あなたに良くしてくれない人とも言えるでしょう。ある意味、客観的な敵の描写です。でもその人を、敵と呼ぶかどうかは、また別の話ではないかとも思います。有名な善きサマリア人という譬えが、10章に出てきます。自分を正当化しようとして、私の隣人とは誰ですか?とイエス様に問うた人に対し、イエス様は当時ユダヤ人に敵対しておったサマリア人が、傷つき見捨てられておったユダヤ人を憐れに思い、その人を助けたという譬えを話されて、では、あなたは誰がこの傷ついた人の隣人となったと思うかと問われました。誰がこの人の隣人かでなく、誰がこの人の隣人となったかと問われる。愛の急所を突かれるのです。客観的な隣人も、客観的な敵もない。その人に寄り添い愛したときに、私はその人の隣人となる。敵もまた隣人となるのです。

人間は、どうして隣人となることができんのでしょう。どうして敵対するのでしょう。愛したいのに愛せないから、敵という枠組みに押し込んで愛さなくてよいことにするのでしょうか。あの人が私を苦しめるから、だから愛さなくても当たり前だと。それを愛せと言う神様に、神も私に敵対するなら、そんな神なら認めないと、神様を十字架につけてしまう。神様にすら敵対する私たち人間。それはキリスト者もまた例外ではないのだと思います。痛みに信者も未信者もないのです。逃げたいのだって同じでしょう。でもキリストは、そこで「しかし」と言われるのです。しかし、わたしの言葉を聴いているあなたがた、あなたがたは、敵を愛するという痛みがわかるだろう、神様の痛みがわかるだろうと、十字架の愛を語られるのです。十字架に上げられたイエス様に向かって悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈られた。父よ、彼らを赦してください。何をしているのかわからんのですと。敵を愛そうと言われたイエス様は、私たちの隣人となって下さって、またこうもおっしゃって下さいました。わたしはあなたを友と呼ぶと。そして、慈しみ深い友なるイエスはという讃美歌も生まれてきました。帯屋町でキャロリングをしよったら、リクエストされたほど愛されている讃美歌です。クリスマスキャロルではないけれどと思いつつ、でもどうして神様が人となられて生まれられたか。神様に敵対しておった私たちのために死んでその罪を全部赦して、友となられるためではなかったか。クリスマスもイースターもその他全部も、神様の愚かなほどの憐れみに感謝して、その愛の愚かさに降参をして、負けました、私の負けです、あなたの愛の勝利です。だから私は救われます。神様、あなたの愛を信じますと、それが賛美であり、信仰でしょう。憐れみ深く慈しみ深い、死と復活の神様を信じるのです。友なるイエス様を歌うのです。

神様の愛の闘いに、私たちのため闘われる神様の愛の闘いに、負けました、降参ですとひれ伏して、あなたの愛が勝ったのですと神様の愛に負けるとき、私たちもまた、神様の愛の闘いに出て行ける。これは米国の黒人解放運動を闘ったキング牧師の説教です。本気で敵を隣人としたこの人の言葉に、私はアーメンと思いました。憎しみが憎しみを生む罪の螺旋階段をもう降りて、客観的には敵である人々を、もはや敵とは呼ばなくなって、みな神様の家族として愛に生きようと、愚かな夢に生きた人です。その闘い半ばで殺されましたが、その闘いは世界全体を動かしました。その夢が神様に由来する夢ならば、その夢を追っていったらよいのです。いま、現実でなくても良いのです。私たちもその夢に生きたい。幻とも言える。今日、この後で総会がありますが、高知東教会のこの一年の歩みというのも、この愛の幻を追っていくとき、自ずと決まると信じています。それ以外の計画は無意味です。愛がなければ全てはむなしい。そして、キリストがいてくだされば、どんなに虚しく見える闘いも、決して虚しくは終わらんのです。キリストが勝利して下さったこの闘いに、神様の救いを証するこの闘いに、私たちも共に加わっているのです。