10/4/4朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書6:12-19、エゼキエル書37:10 「主と共に立つ夜明け」

10/4/4朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書6:12-19、エゼキエル書37:10

「主と共に立つ夜明け」

 

キリストは平らな所に一緒に立って下さいます。ありがたいことだと思います。高くて険しいところから、こっちまで頑張って登ってきたら救われるというのではありません。疲れて、歩けない人に、疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのところに来なさい。休ませてあげようと招いて下さる神様です。私たちの罪を背負いきられた復活の光の中に一緒に立って下さるのです。

先日、九州の長崎を訪ねましたとき、百聞は一見にしかずで、まこと坂ばっかりやと驚きました。聞くと、自転車屋さんがないと言います。一軒もないかはわかりませんが、確かに見んし、こんなに坂ばかりだと自転車に乗る人もおらんだろうと思いました。私たちの教会も、少しだけ高いところにあります。前の会堂が洪水で浸かったので、高いところに越したのですが、この高低差で電停から上ってこれん方もおられるだろうと心配もします。平らで平たいところなら、人も来やすいと思います。ただ、いくら会堂敷地を低くしても、敷居が高いと来られません。教会の敷居は高いという言葉には、耳を傾けなければならんでしょう。その敷居を低くするのは、私たちを通して働かれるイエス・キリストの愛の思いです。神様の愛はいつだって、低いところに立つのです。

今朝の御言葉に続くイエス様の言葉は、通称、平地の説教と呼ばれます。マタイでは同じ説教が、山上の説教と呼ばれました。詳しいことは来週お話しますが、ルカは、マタイとは違った目的で記しているので、もう一回山に登られたイエス様の場面は描かずに、低いところに降りてこられた神様の姿を強調します。クリスマスの救い主、人間の底辺に降られた神様の救いに、ルカは心を奪われるのです。ルカがお医者さんだったということもあるのでしょう。毎日ルカが接していたのは、健康な人ではありません。高い所に頑張って上っていける人ではありません。痛くて苦しくて、誰かに連れてきてもらうか、お医者さんに来てもらえんかったら、自分では立つこともできん人々です。人は自分が立っている所から、救いということも考えるのでしょう。ルカが仰ぎ見た神様の救いは、皆が行けるところにまで降りて来られた主の憐れみです。

人生は起伏だらけです。上り坂と下り坂、数は同じはずなのに、そうは思えないときもあります。転げ落ちてしまう坂もあります。汚れた霊に悩まされていた人々というのは、どんな恐ろしい坂を引き摺り下ろされておったのでしょうか。今でも、いないわけではないと思いますが、もっと多いのは罪に悩まされる人々です。悩みの原因を、罪と呼ぶ人は少ないのかも知れません。でも罪に悩まされてない人がおるでしょうか。この死に至る病を癒されるため、神様は、誰でも来なさいと、平たくて優しい場所に立たれます。憐れみ深い神様です。ならば、イエス様から弟子よと呼ばれ、イエス様を主と呼ぶ私たちは、自分たちがどこに立っているのかを、改めて確認することができるのです。主が立っておられるところに、私たちも一緒に立っているからです。

イエス様は弟子たちと一緒に立たれます。山から一緒に降りてです。弟子達も山におりました。祈りの山です。祈りの夜を過ごした山です。祈りの背景には厳しさがあります。人生の険しさがあるから祈るのでしょう。優しく平和な人生を求めつつ、でも、そうではないから祈るのでしょう。神様に乞い願うのです。自分のためだけではありません。人の苦しみも苦しいのです。私たちの祈りもそうでしょう。あの人を助け、お救い下さいと、家族をお救い下さいと、神様に執り成し祈ります。夜明けまで祈られる主と共に弟子たちも祈ったと思います。でも別の場面をも思います。十字架に向かわれる前の夜、世の罪を負って苦しみ祈られたその夜、弟子たちは主と一緒に祈ることができなくて眠るのです。思いはあってもできんのです。三年イエス様と過ごして、そうでした。イエス様の執り成しの祈りを、共に祈りえた弟子がおったでしょうか。主の愛の弟子として、最も身近な家族のために祈る闘いにおいてさえ、弱さと破れに悩むのが、私たちではないのでしょうか。

だからその愛の闘いを、キリストが背負って下さったのです。神様が勝利の闘いをしに来られたのです。弱さも罪も愛の貧しさも、キリストは背負って下さったのです。夜明けまでキリストは祈られました。悩み抜かれて祈られました。既に十字架前夜のゲツセマネの祈りを、自分を犠牲にして捧げる祈りを、キリストは祈り続けておられました。私たちの罪も弱さも、背負い続けられる、執り成しの闘いをされたのです。

祈りぬかれて選ばれた、キリストの弟子の代表が選ばれます。こういう言い方は何ですが、私たちの癖の強いとこばかり選んで煮詰めたような人たちであり、他人とは思えん代表たちです。その最後を飾るのは、後にイエス様を裏切ったイスカリオテのユダ。けれど弟子たちの筆頭を飾る、ペトロもキリストを裏切ったのです。岩というあだ名をイエス様直々つけられた人です。漁師ですから、体もがっちりしておって性格も岩のようにガンとした人です。悪く言えば単純。よく言えば嘘がない。そのペトロがイエス様の目の前で、お前も弟子だろうと問い詰められ、違う、関係ないと、もし嘘を言いよったら神に呪われたってかまわないと、嘘のない、本当の自分をさらけ出します。皆そうです。皆ズルくて弱くって、キリストに完全に従い続けられた弟子なんておらんのです。みんな、どこかで逃げ出して、愛が破れたその痛いところで、キリストが逃げ出さず祈られて、父よ、わたしがこの人の闘いを闘いますと、十字架に張り付いて闘い抜いて下さったから、私たちは立てないところで立てるのです。立ってもよいと主が言って下さる。逃げても倒れても、死んでさえも、キリストが私たちの前に立って下さって、わたしは復活でありいのちである。わたしを信じる者は死んでも生きると、復活の光の中で一緒に立って下さるのです。

そのためにキリストは祈られました。キリストの愛に執り成され祈られてない人などおらんのです。世界中の一人一人を神様は背負われて、その罪も弱さも醜いズルさも、私たちと一緒にボロボロになって十字架で担われて、父よ、彼らを赦してください。何をしているのかわからんのです、わたしが責任を負いますと、闘い抜いて下さった。その闘いを父は受けられ、これで罪人は救われる。キリストの闘いは勝利したと、御子を死者の中から復活させて、見よ、あなたのためのキリストは立っている、だから、あなたも立ってよい、キリストと共に立ってよいと、神の愛の勝利を、あの朝、宣言されたのです。それがキリストの復活、イースターの朝に輝いた夜明けです。闘いに破れたその夜を、キリストが終わらせて下さって、あなたも光の中に立ちなさい、わたしと一緒に立ちあがり、負けても破れても、倒れても、一緒に立ち上がる復活の光に立てばよいと、愛の平野を切り開かれたのです。

だから私たちは立ち上がり、キリストと共に歩めます。倒れない人などいないのです。倒れてしまうから復活なのです。あなたは復活してもよいと、過去を赦してくださるのです。そして、一緒に歩めます。隣人と一緒に歩めます。キリストは復活された後、みんなを励まして歩まれました。ペトロにも、そうやって伝えていました。あなたの信仰が立ち直ったら、兄弟たちを励ましてあげなさい。そのために、わたしはあなたのために祈ったと、優しい眼差しを注がれました。その同じ優しさが今も私たちの前に注がれています。そうやって教会は歩むのです。神様の優しさの平野に立つのです。そして執り成しに生きていく。キリストと共に立つ朝日の中に、もう歩み始めているのです。