10/11/7朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書11:37-54、詩編51篇18-19節 「心を見られる神様」

10/11/7朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11:37-54、詩編51篇18-19節

「心を見られる神様」

 

今日は教会の暦で、先に天に召された兄弟姉妹たちを覚えつつ礼拝を捧げる日とされています。高知中央教会でも、今日、召天者記念礼拝を捧げます。とは言っても特に儀式を行うわけではありません。祈りは捧げますが、それがいわゆる功徳になるとも考えません。キリストが死んで下さったことで十分に罪の赦しが与えられていると信じるからです。神様ご自身が人となられて、それだけ大きな死を死んで下さった、救いの業が神様ご自身によってなされたのだと、その神様のもとで安息を得ておられる兄弟姉妹たちと共に、改めてキリストの救いを讃えるのが、召天者記念礼拝の中身だとも言えます。

教会、特にプロテスタント教会がほとんど儀式を行わないのは、儀式が何か私たちにしてくれるとは考えないからです。裏を返せば、儀式をすることで安心する傾向を、人間は持っているからでもあるでしょう。神様の言われることは聴かないで、儀式だけで済ましてしまう独善性があるのです。イエス様をここで食事に招いたファリサイ派と呼ばれる人々。熱心なユダヤ教のグループですが、彼らもまた儀式で安心しておったところがありました。でもそれを自覚してなかったので、イエス様が儀式を通り過ぎられたのを見て不審に思った。直訳は、仰天をした。いつの頃から生まれた儀式か、家の入口におそらく80リットル程の大きな石の水がめがあって、その水で洗うと罪の汚れを落とすことができると考えられておったのを、イエス様は敢然と素通りされて、そのまま家に入られた。日本家屋の磨き上げた廊下に陽気な外国人が土足で上がり込んでくるような感覚を、このファリサイ派の人は覚えたのでしょう。感情的嫌悪感だったと思います。けれども、マナーの問題でしょうか。イエス様は汚れを軽んじちゅうと思ったのでしょうか。むしろイエス様は、そこで言われるのです。あなたがたは外側ばかり気にしている。人の外側を見て、その人を裁き、自分の外側を繕って人目を気にする。けれども罪として裁かれるのは、そのようなあなたがたの心ではないのかと、ズバリ急所を突かれるのです。案外私たちもまた素通りしている、心の汚れ、心の裁きという点をこそ、神様は素通りなさいません。

それは精神主義ではありません。全く違って、神様の前に立つということです。精神主義は、大事なのは心だから、外側を一々言わんといてくれと思って、神様を素通りして自己弁護します。あるいは、あなたの心も完全じゃないでしょうと開き直って、心が完全な人なんていないのだからと、やっぱり、一々言わんといてくれと思いがちです。けれど、神様に向き合って生きようとするなら、それが礼拝です。神様を素通りはしまいと心に決めて生きようとするなら、自分の心と向き合わざるを得なくなります。穏やかな心のときなら、安心して向き合えるかも知れませんけど、心が荒れているときは、礼拝を休みたくすらなるかもしれません。説教がなければ来るでしょうか。そうは思いません。私の心を見ておられる神様と向き合ったら、心をごまかせないからです。ならば礼拝に行っても行かなくても、どうせごまかせなさそうですけど、人間は神様から逃げるのは、ご先祖様の時から得意なのです。アダムとエバがそうでした。その子たち、アベルが兄弟カインに殺されたときにも、まだ殺人が起こる前ですが、カインは神様の言葉から逃げたのです。心を閉じて、聞かないことに決めた結果、兄弟アベルの血を流し、最初の殺人を犯すのです。イエス様のおっしゃっていることは明確です。心を神様の前に差し出さないで、いくら儀式を行って、自分の決めたマナーを守り、人々に正しいと認められ、自分でも正しいと認めても、それは逃げているだけではないか。神様を素通りしてはいないか。

無論それは外側を軽んじて良いということではありません。そもそも内側外側という分け方自体がナンセンスであって、二つはいつもセットなのです。でないと、心で神様に向き合っておったら、教会の礼拝にはいかんでも良いだろうという話に、何故だかすぐになるのです。ならばどうして教会で礼拝するか。心で向き合ってくださる神様が、御言葉によって、教会で礼拝をするようにと恵みを与えてくださったからです。どうして礼拝の中では献金があるのか。神様がそうやってわたしに捧げなさいとご自身の言葉をくださったからです。そこで神様に向き会えるのです。私たちは神様が恵みの言葉をくださっているところで、神様に向き会うことがなかったら、およそ自分で考えた神のイメージを自分で操るだけでしょう。しかし、神様は語っておられます。神の言葉は語られています。その神の言葉に、はいと答えて神様に向き合うところで、世界は、神の国のご支配がもう始まっているのを見るのです。

これは神の言葉と神の国についてルカがずっと語ってきたことです。またこの故に律法の専門家もここで叱られているのです。聖書の外側ばかりこねくり回して、神様の言葉として聴くことを、自分たちもしてなかったし、それを人々にも教えなかった。だから人々は聖書は決まりを書いている書物だと思っておった。それをイエス様は叱られるのです。何故入ってこないと。聖書の中に、神の言葉の中に入ってきたらわかるだろう。あなたに語りかけられている神様のお心がどうしてわからないだろうか。外側を気にして、人を裁いて、聖書も神様も決まり決まりだと、人に背負えない重荷を負わせて、自分は決まりを教えて終り。神様との関係も人間関係も、そんな関係で満足するのか。あなたの先祖達に預言者達によって語りかけられ、今もあなたに語りかけられる神の言葉を、あなたの心は殺していないかと問われるのです。

故にイエス様は、内側にあるものを施しなさいと言われます。お食事の場面だからか、例えば、豪華で綺麗な皿鉢もえいけど、お皿は食べれんき、サバ寿司を盛ってくれんろか。そのための皿鉢じゃないかえと言えばわかりよいでしょうか。大切なのは内側です。内側は、施し与えて献げて初めて、誰かに喜んでもらうという本来の内実を得るのです。

でもその内側が、罪を抱えているのです。強欲だと言われます。誰かを喜ばすのではなくて、人を裁いて重荷を負わしてでも、自分の正しさを満たしたい。そんな心を、そのまま施すことができるでしょうか。痛んだサバ寿司を施されても、人はお腹を壊すだけです。でもここで施せというのは、神様に自分を施すのであって、人に与えよというのではありません。翻訳は、人にと、ない言葉を強引に付けてわかりにくくしてしまいました。そもそも全ての施しは主に献げられるのでなかったら、果たして偽善から清められ得るものでしょうか。ファリサイ派の人々、また御言葉を聴いている私たちに向かって、主が激励をされるのです。あなた自身を神様にお捧げしなさい。そうやってあなたの罪を、あなた自身を神様に清めて頂きなさいと、私たちを、神の国へと招かれます。キリストが来られたのは、ただそのためであるからです。

人に重荷を負わせるのでなく、むしろ重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい、わたしが休ませてあげようと、主はわたしたちを、神の国の安息へ招かれます。神様のもとで生きなさい。死して尚生きる神の国のいのちに生きよと、既に天に召され、主のもとで心からの安息を得ている兄弟姉妹たちも、そのように招かれて、そのお言葉に、神の言葉に、はいと答えて、事実、安息を得たのです。キリストの言葉を、通り過ぎることをせんかったのです。いや、むしろそれはキリストが、兄弟姉妹たち、そして私たちのかたわらを通り過ぎてしまうことを拒まれて、わたしはあなたと共にいるから、だからあなたも通り過ぎるなと招き続けて下さっているから、だから主のもとに行けるのです。

決しておろそかにしてはならないものがあると主は言われます。正義の実行と神への愛だと言われます。これも直訳すると、神様の裁きと愛を通り過ぎるという言葉です。神様の裁きと愛をあなたは通り過ぎてはないか。神様の裁きということを聞いても、ああわかっちゅうわかっちゅうと通り過ぎてしまう。神様の愛を聞いても、そうやねえと、やはり通り過ぎてしまう。儀式的には知っているかもしれません。いつも聞かされてきたことかもしれません。でも心で知ってなかったら、そのかたわらを通り過ぎていって、その愛に生きるということも、赦しに生きるということもないのではないか、どうか通り過ぎてくれるなと主は必死になって、いきおい厳しい言葉にもなるのでしょう。それほどに通り過ぎて欲しくないのです。だから十字架に架かられて、あなたはここで立ち止って欲しい、あなたの罪を見て欲しい、あなの裁きを見て欲しい、神様は罪の責任を問われるが、その責任はここで問われると、主は私たちの罪と裁きを十字架で負って死なれたのです。神の言葉を殺して続けてきた人間の責任が、キリストの十字架で問われたのです。だからこそ主はこう言ってくださる。重荷を負っている者はこの十字架のもとにおろしたらよい。あなたの罪をこそ、ここで死なせて、新しく神の言葉によって生きればよいと。私たちはキリストと共に、死して尚、生きる命を生きられるのだと、神様が復活を施して下さるのです。

その命を、私たちは今日、天の兄弟姉妹たちと共に改めて受け止めて神様を礼拝するのです。私たちもまたそこに行きます。神様がここに来て下さったから、天と地をつなぐ十字架の赦しのもとで、神の国の命に生きるのです。