10/11/14朝幼児祝福礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書12:1-12、サムエル記上2章1-11節 「嘘に屈さない生涯を」

10/11/14朝幼児祝福礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書12:1-12、サムエル記上2章1-11節

「嘘に屈さない生涯を」

 

今日、幼子たちに語りたい祝福はこれです。神様はあなたを愛しているから、皆は嘘をつかないでいい。嘘で自分の悪いとこを隠して、私は良い子でえって、嘘をつかなくてもよいのです。

ただし、今言ったことは本当ですけど、大人になったら、嘘が上手になります。隠すのが上手くなる。偽善と言います。小さな子供の心にもある嘘の種が、どんどん大きく育っていく。パン種というのはイースト菌です。水で練った小麦粉にイースト菌を入れると、ぷーっと膨らむ。そうやって、心の中の小さな嘘も、ま、ええわと放っておいたら、心を偽善で膨らませ、生き方そのものも、人生までをも、嘘で膨張させてしまって、最後にはどっから始末したらよいのかわからないくらいに嘘だらけになる。それをあきらめるのが大人になるということでしょうか。私はそうは思いません。イエス様は言われるのです。あなたの内にある偽善と闘いなさい。自分の内にある偽善を知って、それと闘うのが大人でしょう。皆さん、立派な大人になって頂きたい。そのためにも私たち大人は、情けない闘いかも知れないけれど、この闘いを止めることは、しないと、主の憐れみによって約束します。

私は子供の頃、大人になったら嘘を見抜く超能力がつくのだと本気で考えていました。子供は嘘を隠すのが下手です。上手にやっているつもりですけど、すぐバレる。でも下手で良い。直せるからです。ま、直す責任のある大人は大変です。イエス様が7の70倍赦しなさいと言われた言葉にヘロヘロになりつつ、でもそこで大人も、赦すという愛の力を、神様に身につけさせてもらいます。そして子供もそうやって愛を学ぶ。親と子は一緒に育つとは、そういうことだと思わされています。

昨日の清和チャペルデイの講演で、講師の楢本先生が、友だちとは、隠し事がないのが友だちだと言われて、まあ、ある程度そうだろうとは思うけどと考えながら、私は友達がおらんのかなと不安になったのは私だけでしょうか。でも、こうも言われた。友だちとは、誰かがなってくれるのを待つものでなく、なるものだ。それを聴いて、アーメンと思いましたし、またほっとしました。今日の御言葉でイエス様が私たちに、友人であるあなたがたに言っておく、と言われる。もし、隠し事がないのが友人であれば、私は絶望的です。でももし、仮にそうであっても、イエス様は私を友と呼んで下さる。なって下さったからです。神様であられるお方であって、私のことを全部知っておられる方でありながら、私の友となって下さった。こうも言われる。覆われているもので現されないものはない。恐ろしい言葉です。子供の嘘だけでない、大人の嘘もいつかバレます。仮にこの世でバレなくっても、最後の裁きの日がやがて来る。全人類が召喚される恐ろしい裁きが神様の前で開かれる。どうせバレるので、もう先に言っておきますが、私は聖人君子ではありません。先生、言わんでもわかっちゅうと言われるでしょうけど、改めて、具体的には恐ろしゅうてよう言いませんけど、私は罪人です。たぶん皆さんも劣らずそうだと聖書の基準故に推測はしますが、その日お互いの罪深さに愕然とするか絶望して、互いを慰める言葉すら失うでしょう。そのとき、キリストの言葉だけが聞こえるのです。友よ。わたしはあなたを友と呼ぶ。その時こそ、本当に言葉を失うと思います。人間の友なら、抱きついて泣くかもしれませんけど、イエス様の前には、立ちすくんで泣くのではないでしょうか。少し前に聴いた黙示録の言葉にこうありました。そのすべての涙を主はぬぐいとってくださる。人となられた神様が、人間として、友として、友となってくださって、そのまま肩を抱いて下さって、友よと呼んでくださるのです。

だから、こう言っても下さるのです。恐れるな。恐れることはない。何故なら、神様は私たちの味方だからです。決して敵ではないのです。だから、こうも言えます。だから神様に敵対しないで欲しい。私たちを愛される神様の言葉を聴いて、むしろ、私たちの人生を滅ぼそうとする真の敵にこそ抵抗して欲しい。一緒に闘って欲しい。嘘と闘うのです。嘘を正当化しようとする偽善との闘い。それはまた世の中の価値観との闘いということにもなりますし、それを正当化する人々から、何故だか憎まれるということも含まれる。でもそれすら恐れることはない。日本でも戦時中に実際あった、殉教ということがあったとしても、それでも神様がその人を、またその家族を絶対に見捨てることはないからです。重い話ですけど、それをユーモラスに受け止めさせようとさせるのも、イエス様の度量の深さだなと思います。雀の話をなさるのです。

これも小さい頃、土佐山田の土曜市だったか、屋台で雀の焼き鳥というより姿焼きを父親が買って食べた記憶があります。見た目は恐ろしいのですが、食べると甘辛いタレとほろ苦いコゲがアクセントになって、中々美味しかったのを覚えています。イエス様が言われるには、当時は5羽で約千円。1羽200円という、その雀を沢山集めたよりもあなたがたははるかに価値があると言われても、あんまり価値がなさそうなんですが、さて、どうか。比較対象がペットの犬とか猫だったら、もっと価値が上がるでしょうか。今は霊園すらあります。牧師によってはお葬式もされるそうです。私も頼まれたら喜んでしようと思う一人です。神学的に聖書を解釈した結果です。ペットに限らず動物は、最後の裁きの後、古い世が過ぎ去った後、新しい天と地がやってくるとき、神様の贖いの対象として、そこに住まわされると私は信じているからです。詳しい話をする暇はありませんが、大きな根拠は、動物は神様に嘘もついてないし、罪を犯して神様に逆らってないから、わかりやすく言えば、言わば天国に行く権利があるからです。だから新しい地は、相当に大きな場所だと思います。相当にです。神様に何一つ隠さず嘘のない罪なき生き物が神様の栄光の現れとしてそこに住む。じゃあ人間はその相当に大きな面積に、果たしてどれだけ住まわせてもらえるか。今の現状を考えるなら、相当小さいのではないかと恐ろしくなるかもしれません。恐ろしくなって当然の人間の犯した罪の現状、雀よりどれだけまさっているのかと、罪への裁きを知る中で、でもキリストがそこではっきり言われるのです。だから、わたしが来たのだと。このルカによる福音書が最初に語った、そしてもうすぐ私たちが繰り返し耳にし口にする、天使が語ったクリスマスの福音の言葉を、キリストははっきりと告げられるのです。恐れるな、わたしが来たのは、あなたのためだ。友よ、あなたの罪を全部引き受け、身代りにわたしが裁かれ死ぬため、わたしは友として来たのだから、だからあなたは恐れなくてよい、わたしを信じたらよいと、主は私たちの友、救い主として語られるのです。

その後で、自分をわたしの仲間であると言い表す者は、とも言われました。訳し直せば、イエス様を信仰告白する者はという言葉です。そう訳すると、イエス様もその私たちを信仰告白すると変な訳になるので、色々な訳が試みられています。でも、こう言えばよいかと思うのです。イエス様へ信頼の言葉を語る者には、イエス様も信頼の言葉を語って下さる。天使たちの前で、また父なる神様の前で、わたしはあの人を信じる、あの人の言葉に嘘はないと信じる、だって友だものと、あの人はわたしの友ですと言ってくださる。しかし、人々の前でわたしを知らないという者はと、これまた恐ろしい言葉が続きます。でもそれに続く言葉をこそ主は聴いてもらいたいのです。人の子の悪口を言う者は皆赦される。すぐに思い出す人がいます。ペトロです。イエス様を三度も否定した人です。じゃあ三度知らないと言われたか。ノーです。知らないじゃなくて三度イエス様はペトロに言われた。あなたはわたしを愛するか。知らないの反対は、愛するだとイエス様は言われるのです。ペトロ、あなたがわたしを知らないというのは嘘だ。その嘘をわたしは信じない。友よ、わたしはその嘘を赦す。だから聴く、何度でも、あなたに尋ねる。あなたはわたしを愛するか。

イエス様に対する私たちの答えが、もし、わかりません、であれば、それでも良いと思います。無論、逃げではなく、正直にイエス様に向き合うということです。いつかイエス様の愛がわかって、その愛を受け、救い主イエス様、私の命を委ねますと、イエス様に信頼を持って向き合う日が来るようにと、イエス様は私たちの心に聖霊様を送ってくださるからです。これは、うんとわかりにくいのですが、こう理解すれば良いでしょうか。聖霊様の働きはまさに奇跡としか言いようのないお働きを神様ご自身がなさるのです。例えば、わかりやすく言いますけど、ビビッとくるときがある。何これ?神様?と直感するときがある。でも厳密に言えばわからんということでもある。なら、わからんと正直に言って正直に神様に向き合えば良いのです。それを、いや、これは悪霊やとか証拠を見せろとうそぶくなら、主は、それは無垢な発言ではないと問われるのです。いつまでそうやって嘘をつくのかと偽善をチャレンジされる主は、愛を受け入れて欲しいのです。

相手がキリスト者であろうとなかろうと、神様は偽善を憎まれます。嘘は愛を奪うからです。愛を滅ぼし、愛する者を失うからです。神様は私たちを愛すればこそ、キリストを私たちに与えてくださり、道を開いてくださいました。嘘があっても罪があっても、キリストは、それをわたしが取り除くから、あなたの罪を赦すから、悔い改めて、ここに来なさい、あなたの道は開かれていると、命に招いて下さるのです。その道の上を歩むのに、大人も子供もありません。早過ぎることも遅すぎることもない。子供が教師のときもあるのです。幼子のように悔い改めて、日々新しく歩む救いの道を、互いに赦し、教え合いつつ、一緒に歩んでいけるのです。キリストに招かれた友として、神様を父と呼ぶ家族として、祝福に歩んでいけるのです。