10/10/31朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書11:29-36、ヨナ書3:1-10 「委ねる耳と欲する目」

10/10/31朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11:29-36、ヨナ書3:1-10

「委ねる耳と欲する目」

 

全身が輝く人とは、ずいぶん魅力的です。活きの良いサバみたいな人でしょうか。目が違うというのです。輝いている。常にではなくても、ある話題をふると途端に目が輝く人もあるでしょう。例えば私の目が輝く時って、皆さん思い当たるでしょうか。ん~いつも濁っちゅうと言われたら、悔い改める他ありません、が、私自身考えるのは、誰かから、神様のこと教えてと言われた時です。待ってましたと言わんばかりに、目をランランと輝かせているのではないかなと自分では思っています。誰かと一緒にイエス様のもとに行く時ほど、嬉しい時はありません。ほっとけば一時間でも二時間でも語り合うでしょう。受洗準備会を私とされた方はよくご存知だと思います。もっとも、洗礼を考えておられる方がおられたら、遠慮なく、先生短めにと言って下さってかまいませんので、どうぞ洗礼をお考え下さい。今日の御言葉も洗礼と無関係ではないのです。すでに洗礼を受けた者も、まだこれからの者にも、洗礼が指し示している明るい光を、キリストが、そっと私たちの内に置いて下さっている。すると目も明るくなる。そういう御言葉を聴くのです。

目が澄んでいると訳された言葉は、一つの、シンプルで単純なという言葉です。一途な目とも、一筋の目とも言えるでしょう。一途な人って確かに単純かもしれません。それ故、複雑な社会や組織の中でぶつかったり、軽んじられたりすることもあるでしょう。イエス様ご自身、ぶつかり続けて嫌われさえしました。でも単純でカッとなりやすいというのではないのです。むしろ涙もろかったかもしれません。一途なのです。一途な目は、子供なんか特にそうですが、自分にとって関心のある何かに向かい、一直線に向かいます。体ごと一筋に進むのです。

最近マザーテレサのドキュメンタリーのDVDが出たという紹介を読みまして、あ、これは今年の刑務所クリスマスで見たいなと思いました。何年か前にオリビア・ハッセー主演で作られた映画も感動的でした。ご覧になられた方も多いかと思います。その中で、マザーがイエス様の声を聴く場面があります。インドの街の道端で死に行く人々を見ながら、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである、とマタイによる福音書に記された、イエス様の御言葉を聴くのです。それ以来、マザーは道に捨てられて死に行く人々を目にするとき、そこにイエス様を見るようになります。捨てられるほどに、言わばお荷物と見られている人を、しかし、一途な目はお荷物とは見んのです。この人にしてくれたのは、わたしにしてくれたのだと、そこにイエス様を見る目。それは、そこにお荷物を見ている目からしたら、あなたの目はおかしいということになるかも知れません。もちろん実際に、そこにイエス様のお顔が見えるということではないでしょう。でも見ざるを得なくなる。ただ見ると言うのでもありません。耳と一緒に見ると言えるでしょうか。マザーも先ずイエス様の声を聴くのです。御言葉を聴きながら見るのです。そうしたら、イエス様がその人を見ておられるように、その人が見えてくる。そうしたら、もう目だけで見ているのではないのです。見ながら、グッと来る。体全体で見ているとも言えます。イエス様が体全体と言っておられるのは、そういうことではないでしょうか。憐れみ深いサマリア人が、道に倒れている人を見て、腸が揺さぶられるような憐れみを体の奥底に深く感じたように、目だけで人を見るということはないと思うのです。少なくとも、人を物としてでなく、人としてみるとき、体全体で見ないでしょうか。神様を見る眼差しも、体全体で見ないでは、どうしてこの体を救ってくださる神様をゆがめずに見ることができるでしょうか。

イエス様に、あなたが救い主だという証拠、しるしを見せて欲しいと求めた人々の目の暗さを、主は問われています。でも、ただ暗いと言われただけでなく、あなたの中にある光はどうしたと問われた。あなたの内に、わたしは確かに光を置いた。神の言葉を、わたしは語らなかっただろうか。あなたはそれを聞かなかっただろうか。その光は一体、どうなったのか、よく調べて見なさいと言われます。小さいころに、幸生、お母さん言うたろう、と叱られたのを思い出すのは私だけでしょうか。先週も言いましたが、私は人の話を本当に聴きませんでした。自分には関係ないと思っておったのだと思います。関心のあることだけ考えていました。関心のあることだけ見ていました。飽くなき追求を持って見て見て見続けて捜し求めていましたけれど、関心のないことは関係ないと聞いても聞いていなかった。でもです。残っているのです。例えば、幸生、字が汚いと大人になって恥ずかしいき、綺麗な字を書きよと言われていた言葉、聞いてなくって今恥ずかしい思いをしている、その言葉がでも残っているのです。悔いる気持ちで残っている言葉でもあります。が、自分でも単純なのかと思いますけど、希望の言葉でもあるのです。まだ遅くはないと私は思っているところがあります。礼拝出席者名簿に名前を書くとき以外はですけど、まだ遅くはないと思っています。ましてや神様の前にあって、人は、遅すぎるということはないのです。遅すぎることがないように、イエス様は、生ける御言葉、神の言葉を語ってくださっているのです。残ってないでしょうか。よく調べてごらんと主は言われるのです。あなたはわたしの言葉を聴いただろう、光が照らしているだろうと、悔い改めを求める言葉であると同時に、希望の言葉である福音の光を、主は私たちの内に置いて下さっているのです。

高知東教会を会場に今年の夏行われた西日本教会青年同盟に、春から出席している高校生がいます。彼に、いつから教会に来始めたのと尋ねると、お母さんのお腹の中にいるときからと言います。おお、御言葉による胎教かえ、すごいねえと言うと、別に~と言うのですが、今洗礼を受ける準備会をしています。高知東教会では14日に幼児祝福礼拝を奉げますが、毎週の礼拝でも祝福は与えられているのです。案外子供も聞いていますし、礼拝に参加しています。以前、6歳の子が母子礼拝室で、ねえ、何でお祈りしたら暖かくなるがと私たちの教会の姉妹に尋ねた。そしたらその姉妹が、それはね、イエス様がぎゅっと抱きしめてくれるからよと答えたということがありました。改めて思い出し、何と明るい御言葉の光がここで照り輝いたことかと、感謝しました。幼子の小さな体の全身が温かくなるほどに輝かす、神の言葉の光が、礼拝の中で注がれているのです。それを牧師は取り次ぎますし、また母子礼拝室の姉妹も取次ぎ、また私たちが今日礼拝から遣わされて戻る家々で、それぞれの言葉、賜物を通して、光を灯して行くのです。そのために、キリストは御言葉を語ってくださり、その光があなたの内にあるでしょう、よく調べて御覧なさいと言われるのです。

単純で良いと思います。例えば今日頂いた御言葉を一言で言ったら、どんな光か。そうやって調べることもできるでしょうか。ヨナの説教を聴いて悔い改めたニネベの人々が、裁きの日、しるしを要求する人々を裁くという話をイエス様はされました。ヨナの説教は、ものすごく単純な説教です。30分もかかりません。3秒です。3秒の説教なら覚えて家に帰れます。こう説教した。あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。確かに覚えて家に帰れます。一字一句正確に暗証し真似をして、笑い話にすることもできたでしょう。でも人々は笑わなかった。本当だと体でズシンと受け止めたのです。それだけの生活を私たちはしているという自覚がありました。ヨナに向かって、証拠を見せろとも言わなかった。自分たちの内にある証拠を見たのです。見せてもらったとも言えます。自分たちの内にある、罪という証拠、裁きを受けて当然という証拠を、ヨナを通して語られた神の言葉の光によって、彼らは照らされて見たのです。後で読んで頂きたいのですが、ヨナは感動的な説教はしていません。ヨナ個人としては、ニネベに滅んでほしかったので、事務的にやったのです。おそらく皆さんの地区公民館のスピーカー放送みたいに、あと四十日すれば~ニネベの都は滅びる~という感じだったと思います。そのことで、ヨナは神様から叱られるのですが、それでもニネベの人々が悔い改めたのはどうしてか。その説教が、神様から授けられた、神の言葉であったからです。神様の言葉をニネベの人々は聴いたからです。彼らの暗い体の中に、耳から、神様の光が飛び込んできて、自分たちが裁かれる証拠を見たのです。実際に目に映ったのは、やる気のないヨナの姿でしたが、耳から体に飛び込んだのは、永遠の神様の光でした。

イエス様は言われます。あなたの目は単純か。複雑な言い訳をしたりしてないか。あなたの内に与えられた光によって、あなたは誰を見ているのか。わたしはあなたがたに対して、ヨナのしるしとなる。それは、悔い改めの説教を語るイエス様の姿です。無論、ヨナのようなやる気のない伝道ではありません。命をかけた伝道です。けれど目は欺きます。マザーテレサの映画の中でも、マザーの献身的な姿を見ながら、お金のためにやっているのだと嘲笑う報道マンが登場しますが、その人の目の暗さは印象的です。この人は自分以外誰も信じてないのだろうかという暗さです。自分を信じること自体暗いのです。対照的なのは、マザーの目の明るさです。イエス様の目は、どんなに明るかったろうかと思います。明るい目のままで、十字架につかれたのだろうと思います。誰をも恨まず、誰をも憎まず、その明るい単純さゆえに、この人のためなら、死んでも良いという単純さゆえに、苦しみに耐えながら明るい目をしてこう言われたのだと思います。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。ご自分は十字架で私たちの罪のために裁かれながら、私たちのための、赦しの言葉を語られる。そのときの光、一途で単純な一筋の光に貫かれたキリストの光を、私たちもまた単純に見ることができるようにと、主は御言葉を下さるのです。光を与えて下さるのです。あなたの内には光があるろう、赦しの言葉があるだろう、なら、その言葉を信じ、そこに身を置いて、暗さを悔い改めればよい。光のもとに来れば良いと、主はお語りになられます。神の言葉を下さいます。もうそこに、神の国は来ているだろうと言って下さる。その御言葉の光のもとに、私たちは全身を委ねれば良いのです。