10/11/28朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書12:13-21、詩編39篇6-10節 「心安んじて死ねる人」

10/11/28朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書12:13-21、詩編39篇6-10節

「心安んじて死ねる人」

 

今日からクリスマス当日まで、教会は待降節に入ります。巷の喧騒、あっちのバーゲンとかこっちの大売出しなどとは気分を異にして、まさにそういうところで顔をヌッと出してくる心の貪欲と闘いながら、その罪に勝利してくださったキリストのご降誕に、心を集中する季節です。もうキリストが来て下さった。そしてやがてまた来てくださる。私たちを完全に罪から救い出されるために、そして罪を完全に滅ぼすために、裁き主としても来られるということに、特に心を注ぎます。心が他の事で一杯になっておったら、今日の説教題にもつけましたが、心安んじて死ねんのです。死ぬと聞いても他人事のようであれば、死んで後、神様の前に立つときに、心安んじることができるかと考えられたら良いでしょう。そちらのほうがピンときにくいでしょうか。でもそこに命の急所があるという信仰の急所に、共に心を注ぐのです。

イエス様の譬え話は、説明が必要ないほどに明確であると思います。インパクトがあります。今夜死ぬかもしれない。皆そうです。お金持ちだけではありません。皆、今夜で命が終わるかも知れない。ならどうするか。そこが急所なのですが、皆さん、どうしますでしょうか。この男の人は、この後、何か変わったでしょうか。つつましく生きようということでしょうか。お金のことは考えないようにして、もっと信仰生活を大事にしていこうと考える。それで間違いではないとも思います。ならそこで考える、信仰生活をもっと大事にしていこう、もっと豊かにしていこうというのは、具体的にはどうするのでしょうか。毎日祈り、聖書を読む時間を、もっと増やすということでしょうか。是非そうして頂きたいと願いますし、もっともっと神様の前に生きていきたいと思うのです。でもそれが、こっからここまでが神様のための時間で、こっからここまでは私の時間だと思っているなら、やはり神様が言われるのです。今夜、そのあなたの時間が取り上げられて、全部がわたしの時間になったら、あなたはそれでも喜べるような命を持っているかと。

私たちは命を自分のモノだと思っている節がある。自分の命だから、自分の生きたいように生きて良いと考える。ただ人に迷惑をかけたらいかんし、それが罪であって、そういう罪さえ犯さなければ、自分の命を自分の好きなように用いるのは当然だと考えるかもしれません。例えば自分の持っているお金のように、礼拝後、欲しかったあれを買いに行こうと計画をしておれば、それを買うのに何の咎めも感じることはない。子供なら自分の部屋が欲しいと思う。好きなようにできる部屋です。いつも誰かといる人は自分の時間が欲しいと思う。もっともなことだとも思います。特に現代の先進国では、皆、自分の時間空間を持っているのが当たり前になっている。自分だけ持ってなかったら、損をしている、ズルイと思う。私も自分の何がしが欲しいという気持ちは誰でもある。イエス様に、私も親の遺産配分が欲しいと言ってきた人もやはり思ったのだと思います。兄貴ばっかりズルイと。末っ子だったのでしょうか。当時長男がほとんどの遺産相続をすることが少なくなかったようです。私も、もっと欲しいと思った。現代的な人だったのでしょうか。むしろ現代が、貪欲を正当化していると言ったほうが的確でしょうか。無論、自分の何がしかを持っている人が、自分の貪欲を棚にあげて、持ってない人の貪欲を戒めるというのでは全くありません。持ってない人には、自分の持っているものを与えてでも、いや、やはり一緒に持つことができるようにする、ということでしょう。そこに命の急所があるというのは、本当にそうだと思うのです。

けれどその命の喜びを、持ち損なってしまうのは何故でしょう。そこでイエス様は、命がどうして貧しくなるかを、譬え話で教えられます。どうして貪欲が、命の貧しさを生み出してしまうのか、その貪欲の正体を、コミカルなほど、オーバーに強調し、どう、これみっともないろうと言う風に描きます。直訳すると日本語がみっともなくなるので、訳は省いているようですが、この人はこう言っているのです。私はどうしようか。私の作物を私がしまっておく場所を私は持ってない。と思い巡らしたが、やがて言った。私はこうしよう。私は私の倉を壊し、もっと大きいのを私は建て、そこに私の穀物や財産をみな私はしまい、私の魂に私は言おう…。すぐにおわかりになると思います。この人の心は、私、私で一杯です。自分の心に、どれほど多くの私を持っているかということなら、この人は本当に豊かな私持ちだとイエス様は言われるのです。大きな倉を建てること自体は悪いことではないでしょう。いつ飢饉が起こるかわかりません。蓄えをするのは賢いことです。蟻とキリギリスでご存知のように、浪費の愚かさを知っているのは、冬に備えている人です。この私、私の人は賢いのです。蓄えることを知っている。そしたら楽しめることを知っている。けれども神様は、愚かだと言われます。この人のようになってくれるな、あなたの心を自分自分で一杯にするなとイエス様は、私たちの心に語りかけられます。自分のために賢い人は、神様の前に愚かであると、楽しむ命も蓄える命も、どんな命も、その命自身を、もしも自分のモノだと思っているなら、その愚かさは、自分のために積んだ分だけ深いと言われるのです。神の前に豊かにならない者に、あなたにはなってほしくない、あなたには豊かになってほしいのだと、大切な命の造り主、そして救い主である神様が言われるのです。

ところで、この後買い物をしようと考えておられて、やはり買うのをやめようかと思っておられたら、具体的なアドバイスがあります。基本的なことですけど、祈ったら良いと思います。私はこれを、何のために買おうとしていたかと神様に祈って、神様のために買ったらよい。そうやって神様の前に豊かになれば良いのです。献金のときに、神様の御用のためにお用いくださいと祈るように、買うときにも同じように祈れば良いのです。神様のためには買えんと思ったら、牧師に相談してくださればと思います。ほとんどのものは、私は買って良いと思っています。旧くなった家電製品を買い換えるとか、前から欲しかった趣味のものを買って自分の命を楽しませたいと思うのは、咎められることではありません。ただそれを、まるで妻に隠れてゴルフセットを買うように、神様を無視してせんということです。家庭でも、何で私に内緒で買うがと、大概その辺で怒られるのです。商品それ自体が悪いというのは、暴力や猥雑な内容のモノ以外は、あまりないと思います。むしろ、神様が見られるのは、私たちの心の内容です。動機が問われます。何故それが欲しいのか。貪欲の正体がそこに見えます。誰の前に豊かになりたい、あるいは楽しみたい、楽になりたくて、それが欲しいと思っているのか。例えば、私は音楽が好きで15年ほど前のステレオを譲り受けて使っているのですが、かなりボロで、途中で止まらん音楽を聴けたら楽やろにゃあと思うときがあります。いずれ買い換えるでしょうけど、そのとき、どんな神様の声を聴くでしょうか。音がなったらえいじゃかと言われるでしょうか。長持ちするえいがを買えと言われるでしょうか。たぶんそういうことは言われんと思います。わたしのために買うのかと、心に聴くでしょう。車を買うときに、そうやって祈りつつ、教会員の送迎も考えて買われるというのも全く同じことだったと思います。実に豊かな買い物をされたと思いますし、またそうやって蓄えておられる方も少なくないと思います。随分、具体的な話になりましたが、命の豊かさを説き明かすのに、具体的にならないでどうするのかと思うのです。

イエス様がなさった命の豊かさは、何よりも具体的です。自分の死と向き合うことなしに、どうして具体的に生きれるかと問われるのです。先日、高知中央教会の元会員が突然天に召され、おそらく本人もまさかと思っておられたと思います。本人が生前にお葬式はしてほしくないという意志を表明されていたということを、どうにか確認し、家族葬という形で葬りの務めを行うことにしました。ご長女が、親しかった教会の友人達だけにお知らせし、その方々も家族として母を見送って欲しいと言われましたので、多くの方々には知らせませんでした。それから姉妹が長く一人暮らしをされていた家を、初めて訪ねました。この急な階段をよく上り下りされたなと見上げつつ、オルガンを置いてある居間に入ると床がギシギシとたゆみました。葬儀の翌日、ある方が、私は姉妹にオルガンを教えてもらったので最後にお見送りしたかったけど、仕事で行けんかったと、悲しみの涙を流されたというのを聞きました。姉妹は豊かな富を積む暮らしはしておらんかったと思います。けれど決して、貧しくはなかったと改めて思いました。親が召された後で、イエス様に遺産相続のもめごとを持ち込むのと、随分な違いがあると思うのです。親の心子知らずと言いますが、神様の心は、はっきり知らされているのです。その神様のお心に生きて、私は姉妹からこんなにも与えて頂いたと涙を流してもらえる。これほど豊かな命の証があるでしょうか。

自分のためには積まないで、神様の前に積む豊かさ。死んで尚、その豊かさが輝いて、その命を輝かせているキリストの光を暗い世に証する命の豊かさを、主は、神の前に豊かになることだと言われました。でも単に道徳的に生きるということではないのです。直訳は、神様の内側に入り込む豊かさです。神様の前で、門前で止まってはないのです。中に入り込んでいく豊かさです。入っていったら、わかるのです。人もまた神様もそうでしょう。その中に入っていったら、ありゃ、自分のために持っちゅうもんらあて、なんちゃあないねえと、与えて与えて与えて与えて、それでいて、こんなにも豊かでまぶしくて、こんなに明るい光に満ちて…。あ、それでいてじゃなくて、それだから明るいのかとわかるのです。そこにクリスマスの光もまた見えるのです。神様は、ご自分を空しくされて人となられて、私たちの罪を終わらせるための生贄となられて、三日目に空っぽの墓を私たちに残された。でもその空っぽの墓が光るのです。空っぽでえい。あなたの宝は天に積みなさい。心を高く上げなさい。ここに向かって入り込んできて、与える喜び、恵みの命を、あなたと共に分かち合いたいと、私たちの救い主が招いて下さる。この光の中にくればよい。神様の内側で豊かになることができるのです。