マルコによる福音書11章20-25節、イザヤ書55章8-11節「祈りの主語は実は神様」

19/12/1待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書11章20-25節、イザヤ書55章8-11節

「祈りの主語は実は神様」

先週申しました通り、今朝は前回の続きを説き明かします。前回は、エルサレム神殿での礼拝が、礼拝になってなかった、いや、神様からも人々からも礼拝を奪っているじゃないか、それは本当に神様を信じている礼拝になっているのかとイエス様が教えられた。では、神様を神様として信じるとは、どんな神様を信じるのか。信じていれば、形ばかりになっておっても、手続き通りであったら受け入れる神だと信じるのか。どういう神様だと信じているのか一切妥協せずガツンと急所を突かれるのが今朝の御言葉です。若者言葉で言うなら、十字架の救いの神様は、ガチな神様、真正面から体張る神様なのです。

それがよく表れている言葉が22節「神を信じなさい」と訳された言葉です。直訳すると「神様の信仰を持ちなさい」。あるいは「神様に属する信仰を持ちなさい」と言ったほうが文法的には相応しいようです。あるいは「神様に根拠を持つ信仰」または「神様由来の信仰を持ちなさい」。

いずれにしても、私たちがよく思うように、信じる自分に根拠を持つのではない、自分から出たのではない信仰を持ちなさいとおっしゃるのです。神様由来の信仰を持ちなさい。そしたら、この山は動くと。

これも直訳は『持ち上げられて海に投げ込まれよ』という言葉です。山が自分で立ち上がるわけではありません。なら誰が持ち上げるのか。神様が持ち上げて下さると信じるのです。神様が言われたのなら、そうなさるからです。最初から、神様由来の信仰の話をしているのです。

なので24節で「だから」と、本来の話題、神様に祈り、神様に求め、神様から受けるんだ!という、あなたが向き合うのは誰なのか。どんな神様だと信じるのか、という話に戻って、赦しの話をされる。私たちの信仰が、どこから来たのか。その出所を見つめ直すのです。

昨夜、息子の通学用自転車のタイヤに空気を入れようとしたら、何とチューブに空気を入れる口が、ポンプの口と合わない。おかしな信仰と神様が噛み合わないようなもんですが、閉店前の自転車屋に駆け込んで見てもらうと、あ~米式のアダプターが要りますねと、まあこれが教会にあたるでしょうか。小さいけど大切な部品を持ってきてくれました。米式ってことは、他にもあるんですか?と尋ねると、仏式がありますと言われ、キリスト教式もございますか(笑)と言いたかったのですが、頑張ってこらえました。無論フランス式という意味ですが、出所は大事なのです。フランスか、アメリカか、日本か。どこから出たかで、一見同じように見えても、まったくの別物だからです。

信仰も同じことが言えます。世間がそう信じているからと、世間から出た信仰や、私はこう信じる!と自分から出た信仰と、神様が、これがわたしだと語って下さった、神様から出た信仰は違う。神様が私たちとの信頼関係を求めて差し伸べられた手を、はいと、信頼してつかむ信仰が、ここでイエス様がおっしゃった「神様由来の信仰を持ちなさい」という信仰です。神様から出た信頼の絆を持つとも言えます。それは自分の内にではなく、その絆を与えて下さった神様と、それを受けた私との間にある信頼の絆としての信仰です。十字架と復活の主の御言葉から、これがわたしだと聴いて、はいと信頼をするのです。勝手に信じるわけではない。その信仰が、祈り、あるいは礼拝の態度と言葉の中に具体的に表れ出るのです。

その信仰は神様から出て、私たちが、はいと受けて、更に祈りの生活と求めによって神様に向かい、循環して関係を潤すとも言えます。循環しないと、あのイチジクのように、信仰が枯渇しそうになることは確かにあるからです。でも御言葉と祈りの信仰が、神様との信頼関係の絆を潤して成長すると、まあ、やたら山に向かって命じたくなったりはせんなるでしょう。それはイエス様が天の父を知るように、神様を知るようになるからです。御言葉と祈りの循環の内に、いよいよはっきり見えてくる神様のお姿を知ったら、キリストを下さった父の御心を知ったら、そしたら自分の思いではなく、父の御心を求めるようになる。神様由来の信仰を持つというのは、そういうことでしょう。

私たちも、その神様のお姿を知っているのです。ますます知るようになるのです。そしたら、ああだからイエス様は、神様を信じて祈る話をなさる締めくくりに、赦しの話をなさるのだと知るのです。どうして、なさったかを心でも知ると言えます。本当にこのことを心にかけておられるのだと。そのために御子を人として生まれさせ、十字架で私たちの身代わりとなさるほどに赦しを求めておられる。共に生きることを求めておられる。それが御心なんだと知り直すのです。

先週も申しましたが、この赦しの問題抜きで、求めたり、信じたりするのが宗教であって、私たちは宗教など信じてはないのです。キリストの十字架によって、赦して救ってくださる神様を、キリストを仰いで、信じているからです。

そして、キリストの名によって祈ります。その祈りもまた、自分から出た勝手な信仰によって信じるのではなく、イエス様が教えて下さった主の祈りの順番で、御心がなりますようにと祈ります。そして、赦しを求めるのです。それは、イエス様がゲツセマネの園で体を張って教えて下さった祈りです。わたしの願うことではなく、父よ、あなたの求められる罪人の赦しという御心が、わたしが捨てられてなりますようにと、ありえない祈りをなさった。でもそこにこそ神様由来の信仰がハッキリ現わされたのです。神様が死ぬという、不動の山が動くのです。

あるいは、それが不動の山だと思うのも、神様由来の信仰によるのでしょう。人は他人がやることは、やって当然と思うのです。できんかったら責めさえするのに、本当は自分もできんのです。神様が死ぬなんてしよいことだと思ってしまうのかもしれません。神が人を赦すなんて、当然だと思うのかもしれません。自分が罪を犯した相手に対してさえ、えいじゃか赦してくれたちと思うのに。それが罪人の証拠であるのに。

その私たちが赦すのです。自分に罪を犯した人を、恨みにさえ思い、赦せないと思う人を。一体どうやって赦すのか。本当に偉くて赦せる人もいると思います。私は偉くないので、そう思うのかもしれませんが、それはきっと私だけではないと思います。その私たちが、祈って赦すのです。赦せないと思う、動かしたくないとさえ思う山が、なのに動かされてしまうのです。その祈りを祈ったことがないでしょうか。どうしても赦せないと思う人のため、いや赦したくないと思う人のために、でも赦します、赦せないけど、神様、あなたの御心だから赦しますと、胃が痛くて死んだほうがましだと思いながら、でも御心を行ってください、あなたの十字架の奇跡の力を信じますと、祈るのではないでしょうか。そして山は取り除かれるのです。神様を神様として崇めるという、人間から出た礼拝ではない、神様由来の礼拝が、そこに起こるのです。

キリストが来られたからです。神様から出た救い主が来られて、神様から出た信仰を、私たちから出たのではない信仰を、そのイエス様に、助けて下さい!あなたが必要ですと祈り求めた者に、恵みとして与えて下さって、そのイエス様をキリストとして、神様を神様として礼拝する者としてくださったからです。

赦すなら赦して下さるというのは、赦されるための引き換え条件ではなく、そうでなければ神様の赦しがわからず、宗教を信じる私たちを、そこまで罪から救いたい、神様の愛の招きです。その招きに答える信仰も、神様から来ます。求めなさい。そうすれば与えられるのです。