マルコによる福音書11章12-25節、詩編130篇3-4節「だから大丈夫と言える」

19/11/24主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書11章12-25節、詩編130篇3-4節

「だから大丈夫と言える」

この後で持たれますリース教室に先立って、うわ~またえらい御言葉が読まれたと案じた方もおられるかもしれません。私自身、えらい箇所が今日にぶつかったなと思いました。ただ、え?と思う聖書の言葉は、大事な内容であることが多いのです。私たちが、そこで立ち止まって、じっくり考えられるように、敢えて神様が足止めをなさる、という内容が多いのです。人間関係でもそうじゃないでしょうか。本当は腰を据えて考え、話し合わなければならない問題を、でも避けてしまうために、状況が何も変わらない、ということはあると思うのです。

なので腰を据えて、特に後半は次週にかけて、じっくり御言葉に聴きたいと願いますが、確かに今朝の御言葉は、そうした前提知識なしに、パッと聴くと、え?イエス様、わがままじゃない?と思うのが、むしろ当然であろうとも思います。私も初めてこの御言葉を読んだ時は、そう思ったのです。でもこれは、言わば初対面で最悪の出会いをした人と、じっくり腰を据えて話をしてみたら、相手の意図が分かって、信頼さえ芽生え、新しい世界の見方が開けるようなものです。神様がどんな意図をもって、この御言葉を記されたのかが分かると、その神様のお気持ちが分かるようになる。そして、その神様を信じなさいとおっしゃった、キリストのお気持ちに心が開かれていくのです。

この話が始まりましたベタニアという村の名前は、実はイチジクの家という意味です。また先週ロバの子を借りた、すぐ近くのベトファゲの村は、青いイチジクの家という意味で、この辺には多くのイチジクの木があったのでしょう。でもこの時は、その青いイチジクすらなかった。何故か。敢えて説明が添えられています。いちじくの季節ではなかったからであると。それは譬えるなら、礼拝開始時刻の10時より前に来て、何だ礼拝を捧げてないじゃないか、もう誰もここに礼拝に来ることのないようにと言うようなもので、いやいや、それはイエス様が悪いろうという話になるのです、もし、確かにそこでの礼拝が、これは神様が求められる礼拝じゃない、人間が好き放題やっているご利益宗教じゃないかという礼拝になっていたら、なのに人々が、どうしても、その何が悪いかが分からなくて、いや、まあ、そうかもしれんけどと真剣に向き合うことができない心の状態だったら、じゃあどうしたら、心に真剣さが生まれるだろう、という話になるのです。もし!です。そうならないのが今朝の御言葉の急所ですが、もし、その礼拝中に人々がバタバタと倒れて息絶えたら、これは神の裁きじゃないかと真剣になるかもしれませんけど、それを誰が望むでしょうか。それならば、求められている実をつけていないイチジクが枯れたのを見て、じゃあ自分はどうだろうかと真剣に神様に向くことを望まれるのではないでしょうか。

そうした、何か尋常でないことを行って、人の心を真剣に神様に向き合わせる行為を、預言的行為と言います。旧約聖書の預言者がよく行うのですが、そのことで、人を神様の前に立ち止まらせるのです。今朝の御言葉はそれに当たるということが、分かるように、敢えて当たり前の説明が加えられたのが先の「いちじくの季節ではなかったからである」という言葉なのです。じゃあ当たり前やかと思わせて、ん?なら、何の意図があって、主はこのことをなさったかと、立ち止まらせるのです。

いま礼拝の譬えを持ち出しましたが、実はイチジクの実のほうが譬えでして、視覚的教材教育の譬えとでも言いましょうか、実際にイエス様が問題とされているのは、え?それ本気でやりゆうが?という神殿境内での礼拝、あるいは、それでかまんと思っている信仰の内実なのです。それは本当に神様を信じているのかと、問うているのです。

今朝の話は、そもそもイエス様が空腹を覚えたところから始まるのですが、あ、これを用いようと思ったのかもしれません。前日、すぐ前の11節ですが、イエス様は既に神殿境内の下見をされて、そこに大問題を見られたのです。でも人々にはその問題が見えてなかったのか。一緒にいた弟子たちも、どうも分かってなかったのでしょう。どうしたらその問題を分かってもらえるのかと、おそらくその時点で翌日の予定はもう立っていたのです。そしてこの問題が、どういう問題であるのかを弟子たちに教えるために、イチジクの奇跡を行われるのです。

その問題とは、礼拝の姿勢に現れる信仰の問題です。人が自分の考えで、こうやって拝めばいいだろうと信じる信仰ではなくて、聖書で証される神様由来の信仰がそこにあって、礼拝が捧げられているかと思ってイエス様が神殿境内を見たら、え?という光景がそこにあったのです。

その問題を記したのが15節です。まず、両替人とは、当時のお金にはローマ帝国の皇帝の肖像が刻まれたお金と、神殿に献金として捧げることのできるユダヤのお金があって、献金を捧げるには、あまり出回ってなくて使ってない、ユダヤのお金に両替しなければなりませんでした。それをいいことに、両替商が商売をしていた。しかも境内で!言わば、この後の献金の時、皆さんに私が言うのです。ピン札が望ましい。でも万が一、持ってない人は、後ろに両替担当者がおります。手数料が1割かかりますけど、神様のためですと。言いませんけど(笑)。でもそれを当時やっていた。また、当時の礼拝では罪の赦しを求めて犠牲を捧げるのですが、その犠牲は決められた傷のない動物でないといかんかった。その動物を巡礼の旅人たちが遠くから傷なしで連れてくるのは大変なので、エルサレム近辺で買えばいいのですけど、その売り買いを、礼拝を捧げている境内の中でやるのです。特に鳩を売る者の腰掛をイエス様がひっくり返したとありますが、鳩は、貧しくて羊などを買うことのできない人のため、神様が、貧しかったら鳩でかまんと優しくおっしゃった犠牲なのです。その鳩を、皆、貧しくて買ったのか。良く売れたのか。貧しさを売り物にしたのでしょうか。更に、これはすごいと思いますのは16節で「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」。少し説明を加えますと、エルサレム神殿の境内と訳された場所は、異邦人の庭と呼ばれる場所で、割礼を受けてないイスラエル人以外の人は、聖書の神様を信じて礼拝したくても、この庭でならよいけど、この先の場所には行かれんという区切りがあったのです。今は、イエス様がその区切りを取っ払って、信じて洗礼を受ける者たちを一つの神様の家族として下さったので、もはや存在しない区切りです。が、敢えて譬えるなら、キリスト者であっても、この教会の教会員でない人は、後ろで礼拝して下さいと区切って、そこで献金の両替はしている、鳩は売っている、更には東と西のドアが開いていて、これが近道で楽だからと、宅急便業者が行き来することを許してさえいる。そんな場所で、あなたがたは礼拝をすることができますよと言って、そこで神様を求めて礼拝する人々がおるのに、まるでそれが当たり前であるかのように、今言いました状況を見ても、そういうものだと思っている。そういう信仰は、何を信じているのか。犠牲を捧げて、献金を捧げて、礼拝を捧げればよいという、言わば、宗教を信じているのではないか?これこれをするのだという、宗教を信じるのか?いや、決してそうではないだろうと、イエス様は、神様を信じる信仰とは、どういう信仰かを教えられるのです。人々から神様を信じる礼拝を強盗しないように。そして、その礼拝に現れる信仰を求められる、いや、神様を信じる人々を求められる、神様ご自身から私たち自身を強盗してしまうことがないように、イエス様はイチジクの譬えを通して教えられるのです。どうしたら教会が、宗教でなく神様を信じる信仰が持てるかを。それが後半の20節以下です。

先に申しましたように、詳しくは次週説き明かしますが、一言に集約すると、22節の「神を信じなさい」。この一言に尽きます。

どんな神様を信じるのか。どんな神様だと私たちは信じているのか。皆がそうしているからという宗教を信じるのではなく、私たちで言えば私たちはキリスト教という宗教を信じているのではありません。十字架で私たちの罪を償うために、人となられた神様、キリストの犠牲によって救ってくださる神様を信じているのです。

その神様だから、「神様を信じなさい」とおっしゃった、その具体的な信じ方として、25節ではこうおっしゃるのです。「また、立って…」

ものすごくピンポイントです。ピンの鋭い先端で刺されるような問題を取り上げて、それが私たちの信じる神様だと、神様が、どういう神様であられるかを曖昧にされないでおっしゃるのです。

人は、こういう問題は避けたいのです。赦しの問題は避けたい。特に恨みに思う人を赦さなければならない、そしてその私こそ神様から赦されなければならないという問題は避けたいのです。それよりは、決められた犠牲を捧げて、両替をしてでも、清いと思われるような、自分でもそう思えるような献金をすることで、宗教的行為をすることで、自分は大丈夫だ、正しいことをしているからと思いたいのかもしれません。

でも、そうやって、関係の破れ、人との愛の破れから、顔を背けて、避けてしまうから、本当は変えられなければならない状況が、変わらないのじゃないのでしょうか。

ならばこそ、その破れの中に、神様ご自身が人となられて飛び込んで来てくださって、私たちの問題も、その問題の故に、神様が求められる実を結べないで、枯れようとしている私たちの罪の裁きをも避けられないで、一切を引き受けられたのです。神様ご自身が呪われたイチジクとなって裁かれ身代わりに死なれたのです。それが私たちの信じる神様だからです。避けない神様です。曖昧にされん神様です。何を曖昧にされんのか。愛すること、罪を赦して共に生きることをです。そのために、自分が犠牲になって、痛みを負って、損をしてでも、赦して、あなたと一緒に生きたいと求めてくださる。そして、だからこそ、あなたもこの赦しに一緒に生きるのだと向き合ってくださる。あなたは赦さなくてもよいというのではないのです。信じなさい、それは与えられる、わたしが与えるからと、一切の責任を引き受けて、私たちが責任ある愛の命を結ぶよう求められる神様。それが神様だから、信じることができるのです。十字架の赦しと愛は売りものなんかではないからです。