マルコによる福音書11章27-33節、創世記4章3-9節「言葉が通じない悲しみ」

19/12/8待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書11章27-33節、創世記4章3-9節

「言葉が通じない悲しみ」

言葉が通じない人には、どう話をしたらよいのでしょうか。外国人に通じないのではありません。意味は通じているのに、対話にならないのです。相手も、わかってはおるのです。どう答えるべきか。でも答えない。何故か。その答えに沿って追及されると困るからでしょう。答えとちぐはぐな生き方をしているのが暴露されてしまう答えは、はぐらかすことが多いんじゃないでしょうか。わからない。難しい。記憶にございません。いま忙しい。はぐらかし四天王という感じでしょうか。

近年、流行っている考え方で言えば、コンプライアンスの問題です。うんと簡単に言えば、守らないかんことを、守っているか、守ってないか、いや守らないかんろう、それは、というのがコンプライアンスという意味です。企業の不正がばれたり、政治家の汚職がばれると出てくる言葉です。やったらいかんとわかっているのに、やってて、で、それを隠そうとする。消そうとする。わからんと言う。今熱いのはお花見の会でしょうか。ただ、他人事やおか思うのは、私だけではないでしょう。皆、自分が何をしているか、わかっているはずだと思うのです。

祭司長たちも、洗礼者ヨハネは神様から遣わされた預言者かもと全く考えなかったとは思いません。その可能性もあると知っちょったろうと思います。でも信じなかった。それは完全に自信を持って、神様の前で違うと結論を出して、もし違っていたら、その責任を負うことも謙遜に覚悟した上での、信じなかった、なのか。少なくとも、彼らは、神様は信じておったはずなのです。祭司長・律法学者、長老ですから。

もし本当に、神様を畏れ敬っての信仰の決断として、ヨハネの洗礼は神様からのものじゃないと、あれは異端だから信じてはだめだと信じていたら、民の指導者としてハッキリ教えて、民を導かなくてはならんのです。わからんなんて言えんはずです。

あるいは、あれはヨハネを通して神様が語っておられるのじゃないかと思ったけど、従わないまま、その答えを先送りにしたのか。でもそれを取り繕うために、ここでイエス様に対して、あれは神からじゃないと言ってしまうと、群衆から責められる。今の言葉で言えば、大炎上してしまう。やましいことがあると、わからんと言ってしまうものです。

最近、教団の千葉支区で、同じ地域にある福音派の神学校、東京基督教大学から若者伝道の教授を招いて学びを行ったと聴きました。千葉にあるのに東京基督教大学。略称TCU。ティバ Christian University(笑)。その教授が「若者がつい心を開きたくなる大人の特徴」は何かと尋ねられ、こう答えられた。「真の笑顔で、人の話をしっかり聞き、筋が通った生き方をしている人」。Amenと思いました。私も若い頃そういう大人が好きでした。生徒指導部の先生。怖かったけど、筋が通っていて、その先生の話は聴けた。翻って、私はどんな大人になっているか。お花見のことなんか言いましたが、同じ事やってないか、あんな顔してないか。祭司長みたいになってないだろうかと襟を正します。

今朝の御言葉のテーマは明快です。何の権威で、イエス様が神殿での礼拝態度、自分さえ良ければの信仰態度を、体を張って叱られたのか。イエス様が神様から遣わされた救い主として、人々を罪と滅びから救う権威を与えられておったからです。イエス様がおっしゃっているのは、神様がおっしゃっているのです。

でもそれはイエス様が神様だと、心でわからんと、わからんのです。もしイエス様が「何の権威で…」という問いに対して、「天の父から与えられた救い主の権威によってだ」と答えていたら、どうなっておったと思われるでしょう。言葉が通じたでしょうか。神様の言葉は、私たちに通じているでしょうか。先に読みました旧約のカインのように、神様が罪を支配せよ、具体的には、自分自分になっている怒りを支配せよ、とおっしゃった言葉が、でも、全く通じなかったばかりか、全く逆向いて逆走することは、悲しいことですけど、あるのです。

何でわからん?と、私たちも思うことが、結構あるかもしれません。でもそれは、どうも頭でわかる・わからんの問題じゃないのです。今朝の御言葉の突き刺さる点は、祭司長たちは、イエス様の問いに対して、何を問われていて、どう答えるべきか、でも、もしそうやって答えたらどうなるか、全部わかっていた点です。わかっているのです。考えの筋は明確に通っているのです。

問題は、その筋道を実際に歩んでないことなのです。もし、ヨハネの洗礼が、単に人からだ、あいつが考え出したのだと信じるなら、民に、あの洗礼は無効だと教えなければならない。惑わされてはいけないと。でもそう信じているのに言わんのは、彼らが自分のことしか考えてないことを暴露しているのです。言わない、あるいは分からないと言うのが卑怯なことも、筋として、わかっていると思うのです。でも言わんのは何故か。この福音書を記したマルコが代弁するのです。群衆が怖かったからだ。神様からどう思われるかより、人からどう思われるかが、心を支配していたからだと。自分を守ること。自分の権威を守ること。今の自分のやり方を変えなくて済むように、信仰のことであれ何であれ自分の権威で自分のやり方を守れる、その自分の権威を守ることに心が支配されていること。筋を曲げてでも。それが問題なのです。

彼らは筋を通した考え方はできるのです。その意味では愚かではありません。考え方の筋は通っている。通ってないのは、その筋にそのまま従って、神様を畏れ敬って信仰に歩めない、心の筋道なのです。

イエス様は、その心の愚かしさ、自分自分の信仰の愚かしさをこそ、わかってほしくて、敢えてこういう質問をされたのだと思います。同じ考え方の筋道で考えたら、わたしに対して、何の権威でと問うことが、どれほど愚かなことを問うているのか、わかるだろうと。イエス様からの問いかけ、つまり神様からの問いに従って考えたら、わかるのです。そして御言葉に導かれて、わかったのに、なのに、わからないと言ってしまう愚かしさを、どうしたら、わかってもらえるのか。

それは前回・前々回で取り上げた、イチジクの木の譬えを通しても、弟子たちにわかってもらいたかった信仰の問題でした。敢えてイチジクの木を枯らすという、実例による譬えをなさってまでも、どうしたら、わかってくれるだろうかと、キリストは心を砕かれたのです。私たちもそういうことはあるだろうと思います。どうしたらわかってもらえるかと心を砕くことが、ないでしょうか。そして、それでも、どうしても、わかってもらえない悲しみ、言葉が通じない、いや心が通じない悲しみを、私たちも知っているのではないかと思います。

イエス様も、特に祭司長たちに対して、わたしはあなたがたの敵ではないのだと、わかってもらいたかったのじゃないか。言っていることがわかってもらえたらいいというのではないのです。心砕いて語りかけている、わたしが誰であるかを、わかってほしい。わたしはあなたを愛している、敵ではないのだと、わかってほしくて言われるのでしょう。

それなのに祭司長たちばかりでなく、群衆さえ、三日後にはイエス様に向かって「十字架につけろ」と、敵対するようになる。敵だと思う。自分の求める救いをくれないから。自分の思っていたのとは違うから。同じことは、悲しいことに教会でも起こりうる。自分の思っていた説教と違うから。厳しいことを言いましたが、いや~けんど説教に関してはわかりませんとは、この御言葉の説き明かしとしては言えんのです。

先日の新聞に、キリシタンの祈りについて言及したエッセイが載っていました。著者は、人が祈る姿に惹かれると言った後、私には祈る習慣がないが、自分にとっては、毎日植物に水をやったり、お茶を飲んだりすることが、祈りに近いのではないか。自分の心に触れる時間になっているからと書かれたのを読みました。祈りを、自分の心に触れる時間と思う。祈りも自分の話にしてしまうのかと思って、どうしたらわかってもらえるだろうと考えて、思わずため息をついてしまいました。神様に触れる時間にはならない、神様の心の話に、ならんのです。神様の心が喜ぶ話、あるいは御心を悲しませてないかという話にならない。せめて私の心が、神様の心に触れる話になれば。祈りの言葉とは、神様の心に触れたいと求める心から、注ぎ出される言葉だからです。

人に向かって話すのも、本質は同じだと思います。相手の心を思って話さないのは、自分の話、自分の心の話になっているだけでしょう。

でもその心をさえ、愛する人は求めます。まして神様は私たちの心を求めて、追いかけてさえ来られて、追い求めてくださる神様なのです。いつまでも追いかけてくるのです。いつまでも愛し、求めて下さるのです。倦怠期というのは、神様にありません。だから信じられるのです。それが、その名を愛と呼ばれる神様です。そして、その愛は、あなたの心はそのままでいいとは言われない。自分が心を占めてしまう、その心が変わるように。心の筋道が変わって、生き方が変わるようにと求めて下さり、それはこうやって変わるのだと、神様ご自身から、そのご存在の在り方さえ変えて下さった。私たちは自分にこだわらなくてもいいのだと。唯一永遠の神様、天地万物を造られた神様が、神様が神様であることにこだわらないで、人となられた。しかも十字架で身代わりに罪をかぶって死ぬためにです。それさえ、わたしはこだわらないと、わたしはあなたにこだわると、私たちの身代わりに死んで、変わり果てた姿になられて、神様なのに葬られるのです。でも、それでもいいから、何としてでも、あなたに変わってほしい、神の子供として生まれ変わった命に変わってほしいと求められて、神様は人となられた。クリスマスに、私たちを救いに来てくださいました。

自分にこだわる愚かしさは、この神様の愚かさに負けるのです。自分を守る権威ではなく、自分を捨てて私たちを守る、愛の権威に支配されるのです。そのご支配を祝うのが、クリスマスの喜びです。この神様の御心を求めることが、喜びになる心に変えられる。その喜びを待ち望む待降節は、それ故に悔い改めの季節なのです。私たちを救うため、こんな愚かな愛を携えて来られたキリストを、だから信じて拝むのです。