24/4/14復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書9章14-17節、イザヤ書58章6-14節
「悲しみを上回る出会い」
もう破れないで生きられるように。人との関係も、神様との関係も、罪で破いて引き裂いて、関係も心も破れたまま生きないでいられるよう、神様が人となられて、私たちの罪を赦して共にいて下さいます。信頼と愛の内に、神様とも人とも共に生きられるよう、破れを繕われ、むしろ新しい革袋!新しい愛と信頼の生き方を用意して下さって、さあ、共に生きよう、あなたはわたしと共にいるのだからと招いて下さっている。
この場面は、上の9節からの続きです。イエス様がマタイを新しい命に招かれて、今度はマタイが知り合いたちを招いて、さあ新しい生き方をこうやって始めようと、あるいは新しい酒も振る舞われたでしょうか。
するとファリサイ派の人達が、何で罪人と仲良くすると文句を言った。イエス様は、医者が必要なのは病人だからだ、あなたは違うのですかと言われた。そこで今日の御言葉です。洗礼者ヨハネの弟子たちも言うのです「私たちとファリサイ派は断食をします。でもあなたの弟子たちは一体何があって断食せんのですか」。何と!ファリサイ派寄りなのです。
それに対するイエス様の答えを、うんとわかりやすくするとこうです。罪人を招き罪を背負い赦される神様が!共に生きて下さっているから。
そこで考えて欲しいのです。婚礼で実は一番喜んでるのは誰か。花婿でしょう。経験上(笑)。少なくともイエス様の譬えでは、人生が大転換する救いへと招かれて、嬉しゅうて知り合いもイエス様のもとに招いたマタイより!その招きに、はいと信頼して共に生きる命に、ついて来てくれたことを喜んでいるのは、そのために命を捨てて「人の子」(9:6)となられたイエス様!です。その花婿の喜びへと招かれた、直訳すると「婚礼の子たち」は、花婿イエス様が喜んで、さあ命さえ共にしようと、一緒に生きることが嬉しくて共におられるのに、これも直訳は「悲しむことはできない」そうだろうと問われるのです。結婚式に招かれ、花婿が鼻の下伸ばしてる目の前で、暗い顔はできない。そんな失礼はない。
でも、もし信仰も救いも、神様より、あなたのためなら死ねるんだと求められる神様の喜びより、自分が何をしなければならないかが重要だ!と勘違いするなら、十字架の神様に、そんな失礼なことはない。
そもそもイエス様は、断食を「悲しみ」と義しく言い換えられます。13節で、「いけにえ」という形より、その内実の「憐れみ」を求められる神様の前で、私の罪を赦して下さい、ごめんなさいと、義しく「悲しむ」ことが「できる」ようにです。何で義しいか。神様のお気持ちを思うことが「できる」から。自分自分の態度を悔い改め、神様のお気持ちに、義しく方向転換する、愛と信頼の関係に、共に生きることが「できる」からです。自分が!は、神様に失礼で「できない」。でも、あなたのため、あなたと共に生きるため!は「できる」。そのために神様は人となられて、さあ一緒に、あれもこれもしよう、天の父の喜びのために、あなたが、大きな憐れみの神様と共に、また、人とも共に生きることが「できる」ように、わたしはあなたを招きに来たのだからとイエス様が言われる。それが主と共に生きる、新しい革袋としての生き方だからです。
無論、断食が古い革袋だと言うのではなく、まるでイエス様が共にいて下さらないような生き方が古い。言わば結婚後の独身生活が。6章では、偽善者のような顔で断食をするなと言われました。祈り、施し、献金や善い行いも、やればよいというのではない。他の人だけでなく、自分が見て、よし自分は正しいことをしゆうと自分で済むなら、その顔は嘘の顔をしているのです。今日の御言葉で譬えれば、だってあなたの隣りにわたしがいるのに、何でそんな顔をするのかと花婿が言われる。婚礼の譬えに花嫁がいないのは、実は婚礼の子たちが、言い換えれば、教会がキリストの花嫁だからでしょう。花婿が、共に生きられて嬉しいと、命を捨てた愛が報われて喜んでいるのに、なのに花嫁が暗い顔で、自分は自分がせないかんことをせないかんと、固執しているなら、イエス様が言われるのは、それはわたしを信頼し、愛することだろうと、十字架で釘打たれた両手を差し出して、ここに来なさい、と招かれるのです。
確かに罪はある。イエス様と共に生きる新しい生活を破くような自分自分の罪、悪とわかっていることを行ってしまう。悲しみがないはずがない。でもその罪人に、だから向き合い続けて下さっているイエス様に、ごめんなさいと立ち返るなら、義しく悲しむこともできるのです。
花婿が奪い取られる時には断食するようになるとイエス様が言われた。その十字架の上で、神様との関係も人との関係も自分の正直さも人生も、破き、引き裂いて台無しにする罪を、だから人の子が背負われたのです。罪人の身代わりに父から引き裂かれ、何故わたしを棄てられるのですかと、罪人の代わりに義しく嘆かれた。その時、罪人は、新しい悲しみを知ったのです。神様がそこまで共にいて罪人が救われる悲しみを知った。だから断食にせよ食べるにせよ、イエス様、ごめんなさい、ありがとうございますと、共にいて下さるイエス様への信頼に生きればよいのです。