マタイによる福音書7章28-29節、エレミヤ書23章25-29節「人の教えか、神様のか?」

24/2/4主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章28-29節、エレミヤ書23章25-29節

「人の教えか、神様のか?」

聖書には、ついスッと読み過ごしやすいけど、でも何か違和感が残る言葉が、割とあります。「彼らの律法学者」も、その一つです。「彼らの」を取り除けて読んでも、律法学者とイエス様の教えが、権威のある/なしで違うというのは、わかる。じゃあ、なくてえいやかと思うからです。

なのに「彼らの」と敢えて言うのは何故か。「群衆」は、それまで神様と救いとについて、律法学者たちから、こういうものだと教えられて、そう思ってきた。その教えの中で、律法学者と群衆は、同じグループに属しているからです。なので!イエス様は俺らの先生とは、同じ神様のことを教えゆうようで、何か驚くばあ違うと。言わば、こっちに彼らと先生たちのグループがいて、向こうにイエス様がおられて、24節の言葉で言えば「わたしのこれらの言葉を聴いて行う者は」と、「わたしの」と言われるキリストのもとに立つ弟子たちを招いておられる。そこで主の救いの言葉を聴く者が、では私はイエス様のもとに行くのか、それともこのままなのか。自分がそれまで信じてきたのとは異質の救い、異質の愛と正義によってご支配され人を救われる十字架の神様の言葉を聴いて私はどこに立つのか?そう自分に問えるよう、御言葉は導くのです。

日本は特に、人目が気になる文化なので、キリスト者でも言わば○×クイズみたいに、皆はあっちに入っちゅうけど、私はこっちだと信じる、どうしようと、自分の立ち方、生き方で、悩むことがあると思います。

その一人一人に、主は問うて欲しいのです。自分は群衆の一人なのか。十字架の救いの言葉を聴いて驚く一人なのか。そうであれば、イエス様が「わたしのもとに来なさい」と招かれている一人として、はいと主と共に道を行くか。行きたいとも思う。でも…と思ったとしても、続く8章1節で、大勢の群衆がイエス様について行くのです。何がそうさせるのか。イエス様の御言葉に響く「権威」に、神様の権威を感じるからでしょう。そしてそれがどんな神様か。十字架で代わりに死んででも私たちを救うと決められた驚くべき恵みの神様!だと、御言葉は教え、教会は信じ、群衆はそこから主の前に出て洗礼を受けて歩み始めるのです。

キリストによって現わされた、恵みの神様の権威を信頼して、はいとお従いして良いのだと、ここからマタイは「権威」をキーワードとして、注意深く言葉を編みながら展開していきます。そのあらすじを予習すると、教会とキリストの関係、特に教会が何故キリストの救いを伝えるかが、よくわかると思います。先ず左の頁8章5節以下、イエス様は神様の権威をお持ちだと信じる百人隊長が、9節で、私も権威の下にあるから、わかります。行けと言えば部下は行く。それが権威ですから、御言葉をくださいと、病気の部下のため神様のご支配を主に願うのです。私たちがどのように神様の御言葉を聴いているのか、問われる御言葉です。

次2頁飛んで(17頁)権威が「権能」という言葉に訳される10章1節では、主が12弟子に「汚れた霊に対する権能」(権威)をお授けになります。百人隊長が言う通り、権威の下におる者は、汚れた霊も従うから、授けたよと、各地に派遣するため2頁に及ぶ指示を与えた後11章1節で、何とイエス様ご自身が「方々の町で教え、宣教された」で終わります。つまり派遣した弟子たちと共に教え共に働かれるのは、イエス様ご自身なのだから、これが教会に神様の権威を授けられる共におられる神様キリストの権威だから、自分の働きの力や教えの力に信頼しないでよい。わたしについて来なさいと召された、主の教えと働きの権威に、はいと信頼して伝道に励めばよいと励ますのです。そして福音書の締め括り(60頁)28章16節からの大宣教命令で、復活の主が「わたしは天と地の一切の権能(権威)を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これが、この福音書を貫く我らと共におられる神様インマヌエル(1:23)の救いの権威だから、その権威を授けられた教会は、誠実にキリストの御言葉を教え、その御言葉に、はいと歩んで、天の父の光を人々に証しすればよい。ここに神様が共におられる。神様がすべてを十字架で赦し、受け入れ、どんな人でも、わたしのもとに来なさい、わたしは、あなたの神だからと救って下さる。このキリストのもとに立って、その救いの権威の確かさ、優しさ、憐れみ深さを、身をもってお伝えすればよい。それがキリストに背負われ、命がけで受け入れられ、赦されて、全ての人々に向けて派遣されている、主の教会の宣教だからです。

私たち自身の中には人を救う力も権威もありません。赦せないと思いさえする罪ある私たちです。その私たちを、命がけで背負われ、すべて赦して、わたしについて来なさいと、共に歩まれるキリストの内にある権威が、人の魂に、これが神様の権威だと響くのです。その響きの中に身を置いて、教会は十字架の救いの神様をお伝えするのです。