マタイによる福音書7章24-27節、コヘレトの言葉12章9-14節「救いの岩の上に建つ家」

24/1/28教会設立記念礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章24-27節、コヘレトの言葉12章9-14節

「救いの岩の上に建つ家」

わたしの言葉を」聴いて「行う者」。それは、正しい知識を得たら、じゃあ実践しようという賢さではなく、やはり急所は「わたしの」です。

正しい知識として遠く知る神でなく、「あなたの神」と私たちとの関係を求められる十字架の神様の言葉を、主は告げられるからです。22節で言われたように、主よ主よと言うけど、自分の行いに頼って生きるのと、十字架の神様の憐れみによる救いの御言葉に、はいと信頼して十字架の主に背負われて建築する人生の家では、関係のあるなしが違う。人生が終わり、神様の前に立つ時、その違いが決定的となる。その時、わたしはあなたを知らない、あなたはわたしとどんな関係を持っているのかと、誰も言われてほしくないから、すべての人を十字架で背負われ死なれた主が、皆を招いておられる。それがこの救いへの招きの言葉です。

だから、わたしの言葉を聴いて行う者は「皆」と強調されます。例外はない。つまり自分の行いが救いを決めるのではなく、そのすべてが、キリストとの関係の結びの中で行われるからです。言い換えれば、その行いがすべて岩の上で背負われて建つ家だから。そこが違うのです。

どれだけ多くとか正しく行ったかという度合いではない。それを行う、自分の中!の信仰や能力や熱心さの度合いが、十字架の主の裁きの基準なら、何の十字架でしょうか。いらんでしょう。でも十字架の主を知る関係の外で、自分の評価や救いを見出したい愚かな傾向が、人にはある。それで他の誰でもないキリストの御言葉を行う人を見ながら、度合いの低い人を裁くとか。あの人のように、もっと行わなければとか。この人が行っている程度の度合いでかまんがやないかとか。人を見て落ち込んだり安心したりしている時、その私を、十字架の主がどんなお顔で見ておられるか、背負っていて下さるのかを見損ねてしまうのです。

どれだけ正しくとか、どれだけ熱心にという、行いの度合いではない。土台が!その人を救います。キリストに背負われ、キリストに結ばれて、十字架の主が、わたしはあなたを知っている、あなたはわたしのものだ!と、裁きの日に倒れない者として救って下さる。その主の御言葉を、常に主に背負われて結ばれて、はいと行うのですから、その家は救いの岩の上で、キリストが共に住まわれている人生として、もう建っているのです。その人生の途中で、自分は倒れたと思うようなことがあって尚、キリストに背負われ、キリストが決して見放さず投げ出されることなく、最後まで、人生の土台として支え続けて、救って下さる。

だから、大切で、また勘違いしやすいので改めて申しますが、信仰を考える時、特に救いの徴として信仰を考える時、信仰があるかないかを自分の中!にイメージしたら、その信仰は、キリストとの信頼の間柄でなく、自分の手柄だと思い違いをしやすい。まるで自分の行いのように、頑張って信じたのにと、相手との間柄を見失いやすい。でも信仰は相手との間に結ばれる信頼関係の絆です。それを自分の中!に自分の手柄として盗んではならない。むしろ、そんな私たちを決して見放さないで、あきらめないで、わたしはあなたの神だと、まるで私たちがいなければ神様でなくなるかの如くに、私たちとの信頼関係の中に自らを住まわせられる神様が!キリストの中に!私たちを包み込んで救われるのです。

もしも自分の中!に、そんな信仰が求められたら、あるのでしょうか。ない、貧しい信頼しかない、まったくもって自分は信仰も霊的な何かも、神様が求められる心さえ貧しい、心の貧しい者だ、救いに貧しい者だとうつむく人に、真っ直ぐに向かわれるように神様は人となられて、救いを語られたのです。心の貧しい者は幸いだ。天の神様の救いのご支配は、その人のものだから(5:3)。そのために、わたしはすべてを背負い赦し救いに来た、あなたの神だから、わたしのもとに来なさいと招かれる。それが私たちの救いの岩、人生の土台であられるキリストだからです。

イエス様がおっしゃる賢さと愚かさは、巨大津波のように本当に自分ではどうにもならない力が襲う時、自分は倒れない、大丈夫と愚かにも逃げないのか、あるいはどこに実際に逃げるかを示す言葉とも言えます。ならば、十字架で私たちを守るために裁きの津波の前に立ち塞がられた主イエス様は愚かです。あれほど逃げたいと、ゲツセマネの園で泣いて何回も祈られたのに、なのに逃げ出さないで、全世界の罪の裁きと滅びの津波を真正面から身代わりに受けられた、死ぬべき弱い人となられた神様は、まったくもって愚かな神様であって、その神様が私たちすべてに向かって求められるのです。わたしは主、あなたの神だと。

その救いの御言葉を聴いて、はいと行う人を、主は、賢い、良かったと喜んでくださる。この世では、ともすると損をする、その意味で愚かな行いを、イエス様を信頼して、救いの御心がなりますようにと行うのです。どんな小さな愛も、主が背負われて、救いのために用いて下さるからと、主を信頼し、主に背負われて、十字架の御言葉を聴いて、はいと行う。そこに教会は立ちます。キリストの力に背負われて立つのです。