マタイによる福音書6章22-23節、サムエル記3章4-10節「明るい光に照らされて」

23/11/12幼児祝福礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章22-23節、サムエル記3章4-10節

「明るい光に照らされて」

【こどもせっきょう】

保育園に通っている瞳ちゃんは、お母さんが大好き。明るいお母さんで、めったに怒りません。でも色んなことで、すぐ目からポロポロと、涙がこぼれるお母さんです。

瞳ちゃんが運動会のかけっこで転んで、痛くて、恥ずかしくて、あ~と泣きながら、それでも起き上がって走るのを、頑張れ~頑張れ~って、ポロポロ泣きながら応援しています。運動会が終わった後、お母さん!こけたけど頑張って走ったと言う瞳ちゃんを抱きしめて、頑張ったね、お母さん、ずっと見よったよと言って、また泣いています。お母さんのお友だちと電話しながらも、うん、うん、大変やったね、イエス様一緒におるきね、私も祈りゆうきねと言いながら、ポロポロ泣いています。毎日の録画したドラマを見ながらも一人で泣いているお母さんを見て、お兄ちゃんが、ほんと泣き虫やねえと笑うのを、エヘヘヘと泣きながら笑って、お兄ちゃんに近づいてギュッとしています。

そして事件は起こりました。12月25日の夜、お父さんも帰ってきて、皆でご飯を食べた後、テーブルに素敵なクリスマスケーキが来ました。上にあるお菓子の家も素敵だけど、その煙突の上にいるサンタさんが、お砂糖じゃなくてチョコ!すごい!チョコ(笑)。まるでそのサンタさんの目が、私を食べれば幸せになるぞ、ホ―ホーホーと怪しく光っているように見えました。あのサンタ瞳の!お母さんが、サンタさんとお菓子の家はじゃんけんねと言っている途中で、瞳ちゃんがサンタを取って、パク!お兄ちゃんが卑怯な!と言いました。お父さんも、出しなさいと言いました。お母さんは泣きそうな顔で、瞳ちゃん、ごめんなさいは?でも瞳ちゃんは、嫌!ごめんらあ言わん!私は悪くない!これ私のやも。瞳!お母さんが怒りました。自分は悪くないって思うがが一番悪い!と言って、怒ったお母さんの目から、涙がボタボタボタボタ落ちました。瞳、悪いことをしたら、ごめんなさいやろ、そうせんと皆でクリスマスお祝いできんろうと、瞳ちゃんを真っ直ぐ見つめるのを見て、瞳ちゃんの目も真っ直ぐになって、ごめんなさいと泣きました。お兄ちゃんは、えいで、欲しかったらケーキも分けちゃうきと言い、泣き笑うお母さんとお父さんは子供たちをギュッとして、メリークリスマスと言いました。

【説教】

子供たちに、明るい人生を生きて欲しい。幸せに生きて欲しいと祈る。それが私たちの幸せでもあるからです。そうやって共に幸せに生きたい。その幸せを、その名を愛と呼ばれる神様も求めておられます。

体、全身と言われているのは、その体全部で生きている私たち、命のことです。それが「明るい」と訳された言葉は「光に満ちた、光に照らされた」だから明るいという言葉です。

急所は、その人が見ている光、その人を照らす光が、どんな光かです。サンタさんに恨みはありませんが(笑)、あれが、自分の目が見ている光の具体的な譬えです。何が自分を幸せにする、幸せに導く光だと思って私たちは生きているか。金。成功。思い通りになることか。私の生き方、人生を明るく幸せにするのは何だと思って、何を光だと思ってあなたは生きていますかと、キリストが問われるのです。クリスマスの救いの光として人となられた神様が、私たちを真っ直ぐに見つめて問われます。

そのイエス様の光を、この福音書は既にこう語りました「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4:16)。

これが今日の御言葉の前提にあります。暗闇に住む。自分の人生が闇のように暗くて、光が見えない時、光が欲しい。どう生きれば良いか光で道を照らして欲しいと思う。「全身が暗い」。自分の命の全部が暗い。闇の中に生きている。そんな人生は耐えられません。そんな人生を自分の子供だけでない、誰にだって生きて欲しくありません。

「だから」とイエス様が続けられた23節の御言葉を、直訳で言います。「もし、あなたの中の光が、闇なら、その闇はどれほど深いだろうか」。これが私を幸せにする光だと思って、その光に目を向けて、その明るさのもとで生きよう、そうしたら自分の人生は幸せになると信じて、これが幸せだからと全身を向けた。私の中にある光は、これだと思って生きてきたのに、もし!その光が闇だったら。そんな真っ暗な人生を、そんな暗い光を、どんな親だって子供につかんでほしくない。まして神様は、そっちに行くな、それはあなたが本当にあなたとして生きられる光じゃないからと、人生に明るい光を求めながらも暗闇に生きてしまう「暗闇に住む民」の只中に、十字架の救いの光として飛び込んで来て下さった。そして、わたしがその闇と罪と死を代わりに負うから、そのわたしを!あなたの光として信頼して、わたしについて来なさい。わたしにあなたの命を向けなさい。わたしは主、あなたの神、あなたといつまでも共にいる、あなたの命、あなたの永遠の命の神だ!と、真っ直ぐな十字架の愛の眼差しをもって、私たちに向き合って言われる。それが私たちの罪を負って死にに来られたクリスマスの光、救い主キリストだからです。

そのイエス様が言われるのです。「もし、あなたの目が澄んでいれば」。「澄んでいる」の直訳は「単純な」です。朝ドラを見て泣くお母さんに譬えましたが、人の苦しみを自分の苦しみとして苦しんで、人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ、単純で真っ直ぐな眼差し。それが神様が私たちを見つめておられる十字架の眼差しです。単純で真っ直ぐだから、罪を罪として怒られるし、その罪の苦しみを自分の苦しみとされて、だから代わりに背負うと人となられ、その神様の光のもとに、ごめんなさいと命の向きを変えて、帰って来る我が子を泣くほど喜ばれる神様です。

その十字架の恵みの神様、憐れみのご支配と救いを単純に見ない目を「濁っている」と訳した、その直訳は「悪い」です。目が悪くて恵みの神様だと見えない。どうして赦されないといけないのか、ごめんなさいと何で私が言わないかんのか、私は悪くないという目によって命の全体が暗くなるのは、神様を信じていてもそうなのです。

先月、四障伝の講師に招いた難波さんが、私がそうでしたという証しをして下さいました。ご主人が30代で筋ジストロフィーを発症された。でも妻には隠し、一人ふて腐れ、ひねくれて、全く尊敬できない人間に変わり果てた。夫婦の信頼関係が腐り、姑との関係も悪くて、何なのよ私の人生、何もいいこと無い、何よ神様!と一升瓶片手に苦しんでいた、ある日、それまで何百回も聞いて来た「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛は自慢せず高ぶらない、礼を失せず自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。…」の御言葉に出会って「あぁ、愛がなかった!」と思わされたそうです。姑や夫に仕える良い嫁であり妻であるかを認めてもらう一生懸命の努力ではあっても愛ではなかった。一度「私は正しい」「私はこんなにやってきた」というとこから降りて自分を見た時、私は人を傷つけつつでないと生きていけない罪人だったと、へたへたと座り込むほどに分かって、十字架の赦し、恵みの神様が分かった。それまで自分の努力、自分の思いで自分の人生を切り開くことを当然と考えて、一生懸命やれば神様は必ずそれを見て助け叶えて下さる等と考えていた自分が間違っていたと分かった時、こんな私が許されて生かされているという勿体なさで、感謝して生きるように変えられたと証しされました。

そのための十字架です。子供たちに、幸せに生きて欲しいと、死にに来られた神様が、本気で怒って、泣きながら赦して、悪から救い出して下さいます。そして一緒に幸せに生きようと真っ直ぐに導かれるのです。