マタイによる福音書6章19-21節、詩編16篇「宝がある所に心もある」

23/11/5主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章19-21節、詩編16篇

「宝がある所に心もある」

この御言葉を聴くと、すぐ思い出す記憶があります。妻は自分が牧師の妻になるとは思ってなくて、私たちがただの友人だった頃、ハーレーダビッドソンに乗りたくて、教習所に通って免許を取ったと嬉しそうに話していました。私もハーレー好きだったので、すごいやかと言ってたのですが、私がこの教会に赴任することが決まった後、主に導かれ何と結婚することになり、ごめん、ハーレーあきらめてと言いました。前任の牧師夫妻がどんな生活をしながら、すべてを人々の救いのために献げて来たかを私は見ていたので、こういうわけやき、俺も乗らんきと言うと、妻はイエス様が私に言いゆうがやという顔をして、うんと言った。その後、共通の友人と話をしていた時、それでハーレー乗れなくなったと笑いながら妻が言うと、おーそうか、天に宝を積んだんやなと朗らかに晴々と言った友人の言葉を聴いて、妻は涙を流しました。悔し涙ではなかったと(笑)思います。私は神様のために自分を捧げたのだと、友の言葉を通してイエス様の声を聴いた嬉し涙だったろうと思います。

「富は天に積みなさい」。前の口語訳は「天に宝をたくわえなさい」。直訳は「自分のために、天に貯えを貯えなさい」。それは、あなたのためになるのだからとイエス様はおっしゃるのです。ともすると勘違いされやすい、ストイックで禁欲的な、自分のためなんて考えるのは卑しいというのではないのです。むしろ、どうしても自分のことを考えてしまう肉の弱さを受け入れられたイエス様が、その私たちが卑しくない偽善的でも痩せ我慢でもない幸せに神様と共に生きられるように、クリスマスの救い主として、人となって下さった。私たちの罪だけでなく、弱さも本当の幸せも一緒に主が引き受けて下さり、ほら、あなたはこんなにも幸せな涙を流して生きられる、この幸せはあなたのためだと、保証して下さるのです。

「貯えを貯えなさい」だと確かに美しくはない訳でしょう。でも富も宝も、何かの役に立つから貯える。しかも自分のために貯えるのです。私は毎度で恐縮ですが、本を貯えています。やたら!(笑)。それは人々の救いのために役に立つと思って、それが私に将来、良い牧師としての良い生き方をもたらすだろうと思ったからコツコツ貯えたし、皆さんも、自分や自分の家族に幸せをもたらすと思えばこそ貯えている何かがあると思います。単にお金の話をしているのではないのです。お金でも何でも、それを何のために貯え、あるいは持っている、また持ちたいと思うのか。それが自分や自分たちに幾らかでも幸せを保証すると思えばこそ、特に貯蓄は将来の幸せの保証に貯える。年金も、数十年後は制度が破綻して帰って来んと信じたら積み立てん人もおるでしょう。虫が食ったり、盗人と言うと聞こえが悪すぎますが、自分に後から返ると保証を信じるから貯えるのでしょう。体が資本だから健康を大切にというのも同様。良い報いがあると信じるから、健康という貯えを貯える。

でも私たちは知っています。地上の貯えが私たちに幸せを保証すると思う期待や考えは、私たちを裏切ることを。鈴木先生も神学のお宝本を書棚に貯えていて、将来あれは俺のものにと期待していましたが、全て98年の豪雨でゴミになりました。アウトドアの妻は嫁入り道具にテント一式(笑)貯えてましたが、私がガチのインドアで期待は大外れ。健康も、どんなに気をつけていても、確かな保証はないことを本当は知っているのです。いや予想外のことなど何一つ起こらずとも、体という資本は失せていきます。いや~いつまでもお若いですよと言われても、多分いつまでもは言われない。いつか言えない日が来る。その日、あるいは突然、自分の宝が失われるその日、何が私たちの幸せを、そうであって尚!保証するのか。それがユダヤ的言い方で「天」と言われる神様の、御子を犠牲にしてまでも保証されるキリストの救いによるご支配です。

その救いの幸いは失われんのです。地上で失われる幸いのような只の人間の命が十字架で失われたのではないからです。むしろ主は、失われても仕方ないと、あきらめがつくバイクのような命など、あるはずないだろう!そんな軽い命など父は一人も創ってない、誰も失われてはならない、わたしと生きよ、死んで尚、消え失せる地上と共に朽ち果てず、わたしと共に!父の救いのご支配によって新しく立ち上がって生きよと、それだけの命を、神様が死んで支払って下さった。

それほどに保証された幸いを、あなたは信頼して、父の救いの御心に、はいと、あなたの身を献げれば良いと主は言われるのです。地上の幸いに心奪われ、父のご支配より、これが私の幸せだと思いを注ぎ、時間をかけ、お金をかけてしまうことがあっても、わたしのもとに来なさいと、主が私たちをご自分の宝としてあきらめないでいて下さるから、はいとキリストの恵みに生きるのです。ごめんなさいと、立ち返れるのです。父に自分を献げることをあきらめないでよい。父のご支配、人々の永遠の救いのために、自分という宝を積める幸いに皆、招かれているのです。