マタイによる福音書6章13節、詩編140篇「悪より救い出したまえ」

23/10/15主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章13節、詩編140篇

「悪より救い出したまえ」

神様が私を苦しみに遭わせていると思わせる悪より救い出したまえ。罪を赦す代償に、父はご自分と一体であられる御子さえ棄てられたのに、そこまで我らと共に生きることを求め愛される父を信頼させないよう誘惑する悪より救い出したまえ。何故なら、父を父よと呼んで信頼し、悪から救われて生きる喜びに、あなたも共に生きたいだろうと、我らのため苦しまれた主が、共に祈って下さる。それがこの祈りです。

神様が私を苦しみに遭わせていると思わせる悪、と先に言いました。それは私たちが試みに遭うと思う時、おそらく苦しみを思うからです。でも苦しみ自体は、試みでも誘惑でもない。その苦しみの中で、御子をくださった父を信頼するか、しないかが試され、信頼せんのがまるで当たり前のように、信頼なんかするなと誘惑するのが悪なのです。

「遭わせず」の直訳は「導き入れないで下さい」。弱い私たちの代表、主として人となられた御子が、悪魔が誘惑する試練の荒野へと聖霊様により「導かれた」ことと重ねているのでしょう(4:1)。だからまるで事故に遭うように悪いことが自分に起こらんよう、お守りを持つのとは違い、父のご支配を信じるのです。生きている者と死んだ者の、全ての悪を悪として完全に裁かれるほどに、私たちの命と死、救いと裁きを御子によってご支配しておられる父のご支配を、はいと信頼するから、誘惑に弱い私たちを憐れんで下さい、憐れみのご支配を来たらせたまえと祈るのです。まるで事故に遭わなければ自分で生きられるかのように高ぶり勘違いしやすい、その意味で悪に弱い私たちを、いやいや石をパンに変えることはできなくても、自分で生きられるだろうと誘惑する悪魔の誘いに導き入れず、むしろ!悪より救い出したまえ

無論、悪魔だけが誘惑するのではないし、常に悪魔が誘惑しているのでもありません。何でも悪魔のせいと思うのは、思い通りにならんのを神様のせいだと思う考えのパターンと同じで、誰かのせいにして自分を守りたい自分中心の現れです。誰かのせいにしたい。それは私たち自身の内にあり、だって他の人もしゆうやかと思うほど世にも!確かにある。そうして悪に支配されているように見える世界の中に私たちは既にいるから、その悪を裁かれる、そして十字架で裁いて下さった主ご自身が、悪から救われて生きようと、導いておられるのがこの祈りです。

この祈りを託して下さったイエス様が、人として見ておられた世界、今も主と父と聖霊様が見ておられる世界を、私たちが同じように見ているか。それがこの祈りを祈る態度、つまり私たちの生き方を変えていきます。いやあ今日は悪より救い出したまえと祈り執り成さなくてもよい一日だったという日は、世界にも我らにもないからです。

では具体的にどう生きるのか。罪と悪に敏感に生きるのでは、ない。むしろすぐ罪を裁く悪より救い出したまえ!と、十字架の主のお気持ちに敏感に、父の憐れみに敏感に生きるのです。心の貧しい者、悲しむ者は幸いだと憐れみに生きる敏感さです。父に喜ばれる態度に貧しい者を、なのに見捨てられず、そのあなたのためにわたしが来たから、あなたは幸いだ、共に幸せになろうと、キリストによって救って下さる父の御心に敏感に生きる。その父に、はいと従うため敏感になる姿勢を、裏から見て言うならこうです、悪に鈍感にならないよう襟を正して生きる。

荒野の誘惑で「誘惑する者」と名指されたが悪い者が、神なんか信頼するなと誘惑する世に私たちはいる。神が父?こんな苦しみに遭わせる神より自分を信じろと、十字架の父の愛を信じる信頼関係に生きるより、自分に楽な道を信頼しろ、苦しみに遭わないのが救いだろと誘惑する悪に、人は弱いからです。それは誘惑だと御言葉からわかっていても弱い、悪に飲まれやすい人間の、だから代表として主となられた御子が、我らの罪だけでなく弱さをも負われた。なのに主が、退けサタンと命じて、何故サタンが去ったのか。我らと同じ弱い人となられた主からサタンが去ったのは、サタンが、人の強い弱いや信仰の強い弱いを見て、勝てる負けると判断するからではない。その全てを見ておられる全能の父が!我が子はこの状況でわたしに向き合い信頼している、その信頼は義しいと認められ、サタンよ退けとご支配されるからです。

だから主が「御国を来たらせたまえ」と教えられて、父よ、あなたのご支配を来たらせてください、我らが悪の支配でなく、あなたのご支配に、はいと生きられるように憐れんで下さい、父のご支配に生きたいのですと祈るよう求められた。そのご支配を改めて求めるのです。我らがどんな世界で、どんな生き方で生きているかを、我らの弱さを負われた主と共に、父の御前に訴え出るようにして、具体的に執り成すのです。父よ、あなたがご覧の通りの有様です、自分を信じて生きる誘惑に弱い我らです、だからこそ十字架の憐れみによってご支配くださいと、主と共に、主に背負われて祈る。悪から共に救われて生きたいのですと。主と共に、主の名によって、十字架の全能の父を信頼し共に祈るのです。