マタイによる福音書6章11節、詩編146篇「一日一日を生かす恵み」

23/9/24長寿祝福礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章11節、詩編146篇

「一日一日を生かす恵み」

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」。主が教えて下さった主の祈りの一つ一つの求めは、主が私たち「我ら」に求めて下さっている求めの一つ一つでもあります。それを一つ一つ丁寧に聴いております。

必要なのです。祈りは天の父との対話です。対話が対話になるために必要なのは、言葉が自動で飛び出して空虚に消えんことでしょう。挨拶も、言わんよりは自動でも言うたほうが良いのか。でもそれで挨拶したつもり、相手に義務を果たしたつもり、愛したつもりで、相手との関係を満たさない虚空に消える自動的な言葉が、もし当たり前になったら。そういう生き方、自動的な関係が当たり前になって、ご飯、風呂、俺の眼鏡どこ、と私が妻に自動で当たり前に言うたら。益先生に、愛さんはあんたのお母さんやないと、ピシャリとやられるでしょう(笑)。

でもつい自動的に生きてしまう。生きていることも、ご飯があることも自動で当たり前で、なかったら不満で、だって当たり前やか!と思う自分は正しい!という態度で生きなくて済むためにはどうしたら良いか。むしろ感謝して、必要を、我らの必要として、共に求め、また与え合い、分け合って、我らとして生きるためには、何と祈るのか。我らの父よ、我らの必要な糧を今日も我らに与えたまえと、我らの必要を満たされる、我らの父に祈るのです。

糧、つまり食糧の必要に困窮してない人は、ではどう祈ればよいのか。貧困で日用の食事が取れない人々を助けて下さいと祈りなさいと、主が言っておられると思うなら、「我らの糧」ですから、自分には糧があると思うなら、それをどうしたら「我ら」として分け合えることができるかと求めることも、やはりこの祈りの求めだと思います。いきなり自分の襟を正すことになる祈りになるのかもしれません。

こう思ったことはないでしょうか。この次に祈る罪の赦し「我らの罪を赦したまえ」より、どうして我らの糧のほうが先なのか。赦しの必要のほうが、言わば天国に近く霊的で、神様に襟を正す信仰らしい信仰、祈りらしい祈りのように思いやすいかもしれんのです。でもそれは糧が今日あること、もしないと生きられない〈生きる〉ということが言わば自動で明日も続いていくのは当たり前だと思いやすいからじゃないか。逆に罪を赦し赦されることは、祈りのように意識して頑張って、そうだ頑張って赦そう、そして自分は赦しを必要とする人間なのだと信ずべき信仰を忘れないように頑張ろうと、当たり前じゃないことを頑張るのが信仰だと思いやすいからじゃないか。

確かに次に祈るように、人が自分に罪を犯したら頑張らいでも自動で不快だとわかり罪だとわかる。でも自分の罪は言われてもわからないか、わかりたくない我らが、それでも我らとして共に!愛に生きるために、次の祈りはあるのです。その罪を赦すから、それでも共に生きたいから、赦すから一緒に生きようと望まれる我らの父の求めが、ほとばしるのが次の祈りです。でもそれは父が私たちに生きることを、生きて欲しいと望まれるから、赦しの中に共に生きようと求められるのであって、赦しと生きることと、どっちがどっちの理由かと言うと、生きて欲しいから赦すのでしょう。そもそもこの〈生きる〉という本当は神様のいのちの奇跡でしかない、生かされて生きる恵みを、自動で自分自分で生きるに堕落させるところで罪を犯してしまう私たちに、それでも生きて欲しいからと、代わりに罪を負って死にに来てくださった三位一体の御子が、だから一緒にこう祈ろうと教えて下さった祈りなのです。我らの必要な糧を今日も我らに与えたまえ。

この地に恵みとして与えられたいのちの中には、わずか一つさえも、当たり前で自動で当然のいのちなどないことは、本当は私たち、大切な人のいのちが突然失われてしまうその度ごとに、思い知ってきたはずなのです。私のいのちも他の誰のいのちでも、明日も同じように生きられるはずだということは決してないのだ。明日が来ることも、明日この人と共に生きられることも、一つとして自分で自動で確保できない我らであればこそ、キリストが、父よ、この愛され赦されて生きるべきすべての人の、永遠のいのちの糧として、あなたはわたしを与えきってくださった我らの父なのですから、その「我らの日用の糧を今日も我らに与えたまえ」と、我らの主として、今日も共に求めて下さっている。そして父と一緒に我らを支えていてくださるのです。

我らが我らの主と共に本当に生きるようになるために、死んでも復活のいのちに共に生きるために、死ぬ必要のない神様が!我らの罪を負い死にに来て下さって、わたしも父も、あなたがた全員が、生きること、死んでも復活して共に生きることを望む!と共にいて下さる。だから、我らの糧を、生きるための必要を、はいと信頼して祈るのです。もし、当たり前じゃないことを頑張るのが信仰なら、1秒先すら当たり前ではない、いのちの奇跡を、主に信頼し感謝して生きるのが信仰なのです。