マタイによる福音書6章9節、イザヤ書29章22-24節「神様を神様とする態度」

23/8/27主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章9節、イザヤ書29章22-24節

「神様を神様とする態度」

「御名があがめられますように」。直訳は「あなたのお名前が聖別されますように」と祈るよう、主は教えて下さいました。

聖書の聖、特別の別で「聖別される」。この言葉自体、特別で、軽くは用いない言葉です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。聖なるもの、神様の特別なものとするという意味です。

でも特別って、そういうことでしょう。皆さんにとって特別な相手はおられるでしょうか。特に尊敬し、ま、あがめたら偶像礼拝ですが(笑)、でもその名前が、もし軽々しく呼び捨てにされ誰かに笑われていたら、不快に感じる。それは自分にとって特別な、尊敬する相手だからです。

私たちの天の父の存在も、そうなりますように。それが私たちの祈りにおいて、いや私たちが私たちとして生きることを求める上で何よりも先ず求められる求め、第一の求めだと主は言われるのです。

天の父が特別な相手となりますように。父よと呼ぶ時の自分の気持ちを思ってもよいのです。あるいは、そう呼ぶ自分自身、口だけの自分になっていると思う時、心を静め集中して、父よと呼ぶ。他の誰をもそのようには呼ばない呼び方で。妻の名さえそこまで集中して呼ばないほど、呼ぶ人もおるでしょうけど(笑)。でもそれだけ特別な存在として、父よ、あなたが愛され、あがめられますようにと、自分のこととして求める。

父が自分にとって特別な相手かと問われると、もじもじするかもしれません。では誰が特別な相手か。天の父は自分より特別になっているでしょうか。蛇がそそのかした、あなたは神のようになるという誘惑は、あの時だけ特別な誘惑じゃありません。何が良いか悪いか自分で決めるという誘惑に対して、自分を特別にする誘惑に対して主は、いや私たちには天の父がおられる!と、断固、父が特別な神様であられる父としてあがめられるよう、祈りを教えられるのです。

その父の子として、私が生きられますように。世界があなたを天の父としてあがめ生きることができますようにと祈って始める一日は、自分の求めを一番にする一日とは、違った一日となる。神様の特別な一日、神様を父よと呼んで、父に向き合って生きる特別な一日となる。礼拝の日だけが聖別された日ではありません。父との関係が聖別され、父への愛が聖別されますようにと祈る一日は、誰よりも父にとって特別な一日であることを、父はその祈りを、どうして無視できるかという父であることを信頼して祈って良い。そして父よ、あなたが父であられることがあがめられますようにと祈る。自分にとって他に特別な人がおっても、このようには呼ばない呼び方で、あなたを特別な存在とならせたまえと祈る我が子を、父はどんなに特別に思われるか。何度も申しますが父は子がいないと父であることを失うのです。父はその特別な関係を絶対に失いたくないのです。つまり我らの父であるという関係を、父こそ特別に思っておられるから、その父の求めをあなたがたも第一とせよ、続く祈りを導く祈りとして、こう祈りなさいと、主は言われるのです。

第一に!という順番自体、これは父の特別な求めだということです。特別な関係というのは、具体的に譬えるなら、私と妻との関係は、聖書が二人は一体であると教える、聖なる特別な関係です。が、その特別な関係を、時間も心も存在も共にして生きてなくて、他の人と仲良くしていたら、妬む。むしろ妬んでほしい(笑)。それが特別な関係でしょう。聖書全体が繰返し証しする、その名を愛と呼ばれる神様は、妬む神様。特別な関係は特別な関係だろう!と激しく嫉妬される聖なる神様です。

でも先に聴いたイザヤ書29章も含め、イスラエルも教会も私たちも、むしろ自分を恥じるような生き方をどんなに繰返すことか。その私たちを見捨てられないで、あなたは我が子だろうと、父が御子を犠牲にして救って下さったから、私たちはその父の名を聖として生きられる。

聖なるとは、神様由来で!神様がそうなさるから!神様のものという意味です。人間がそうするからでも、そう決めるからでもない。

父が!私たちに、これがわたしの心、あなたへの求めだ。あなたが!わたしの求めている、わたしの愛する者、わたしの子だと、神様のほうから特別に求めて下さっているから、私たちは聖別された、神様のもの。聖なる特別な者として、はいと生きられるのです。

だからそのように、はいと生きる。それが聖別です。我らの天の父というお名前も、天地を創られた神様が私たちの父でいて下さる、という特別な関係を、私たちが求めたからではなくて、父が!あなたはわたしの子だと、そのために三位一体の御子を犠牲にされるほど特別な父の子として求めて下さったから、はい!この関係は特別な関係ですと求めるのです。求められるよう祈るのです。御名をあがめさせたまえ。私が、教会が、世界が、父を神様であられる父として愛し、敬い、その救いの御心を、聖め聖別して生きられますように。御名をあがめさせたまえと祈る。そう信頼し生きる我が子の姿が、もう父をあがめているのです。