マタイによる福音書6章9節、イザヤ書63章16節「三位一体の我らの父よ」

23/8/20主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章9節、イザヤ書63章16節

「三位一体の我らの父よ」

先にも祈りました主の祈りを、イエス様は「だから、こう祈りなさい」と教えて下さいました。すぐ前8節で「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたの必要が何かをご存じなのだから」、だから御子をくださった憐れみ深い父なのだから、こう祈りなさいと。時折、主の祈りを唱えると言ってしまうのを耳にすることもあります。使徒信条や十戒は、その性格上、唱える、口にするで良いと思いますが、主の祈りは唱えません。天の父に、父よと呼びかけて、対話をする。それが祈りです。もし私が、お父さん、と呼ばれたと思い返事して、え?唱えただけと言われたら、呪文やないがやきと笑って、我が子との対話を求めるでしょう。祈る時、天にまします我らの父よと、父に呼びかけ、対話を開始するのです。

「こう」祈りなさいと言われたのは「このように」こういう祈り方でと、祈りが向かうべき方向を、順番に示されたとも言えます。スマホや車のナビと同じで、次はこっち、その次はこっちと、方向を示すのです。その方向に向いて具体的に何を祈るかは自由です。例えば「悪より救い出し給え」で、それぞれ具体的な悪からの救いを祈ると思います。でも祈りの方向を間違うと、唱えるみたいに、人や自分に言い聞かせるための、祈りではない方向に行きかねない私たちを、イエス様が、天の父のもとに連れて行って下さる。それが主の祈りです。

だから先ず!父よと呼んで、あなたがたの天の父との愛と信頼関係の対話を、父に呼びかけることから開始しなさいと主は言われるのです。父よと唱えるのではなく、呼びかける。向き合うのです。自分が祈っている相手が誰であられるか。その相手にとって自分は誰であるか。その関係は、どんな関係であるかに、父よ、と呼びかけて向き合う。

そこに何分も費やして、父に向き合おう向き合おうと呼び続ける時もあるでしょう。疲れている時、また苦しくて、父は私の必要をご存じなのかと父への信頼より自分の感情が勝って苦しい時は特にです。その時に、父は「にまします我らの父」なのだと、祈りの方向、信頼の方向、関係の態度が、方向づけられる必要がある。それがこの呼びかけです。

父に向き合うことが義しいのはわかる。でも父に向き合うより、人や自分に向いてしまいやすい。その「我ら」を深く憐れまれ、その我らの主となるために、父から人として遣わされた三位一体の御子、イエス様が言われるのです。あなたがたの父は、天の父だから、そして我らの父なのだから、そこに向き合いなさいと。我らの一人となられ、我らの主となられ、我らの罪を赦したまえと、罪なき御子であられるのに一緒に罪を背負って父に祈って下さる、十字架の御子が言われるのです。

天は神様の言い換えです。だから天の国は、神様のご支配。天の父は、神様であられる父です。不完全で頼りない父ではない。5章48節で主が言われた「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。神様であられる父です。私たちは、ともすると神様という言葉に慣れ過ぎて、神様と呼びながら、一体どなたに自分が向き合っているか、どんな態度になってしまっているか、特に一対一で神様に向き合う祈りの時!それは、世界を創られた、唯一永遠で完全で全知全能の、世界を裁かれまた救われる神様に向き合う態度か?という時がないか。あるいはそんな時ばかりかもしれません。でも父だからと甘えてしまうということもあるでしょう。信頼から来る甘えは悪くない。この弱さを父は受けとめて下さると父に甘えられる信頼の態度は、祈りにも具体的に表れてきます。その祈りの代表がゲツセマネの祈りです。

世の罪を背負い、我らの罪を償うために人となられた永遠の御子が、その償いの死を前にして「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかしわたしの願い通りではなく、御心のままに」(26:39)と祈られました。「父よ」と呼んで、父に向き合われて、その父の御心、我らを救うための父の御心がなるために人となられたのに、その御心が私に起こらず過ぎ去りますように、苦しくて耐えられませんと父に祈られる。我らの弱さを背負われ、我らの弱い主となられ、父は我らの弱さを憐れんで下さると信頼して、しかしだからこそ父の御心の通りになりますようにと、その我らを救われる完全で全知全能の神様であられる父の救いは完全であられると信頼して祈るところに、父の御心がなるのです。天になる如く、弱く罪深い我らの地にも起こる。それはこの祈りを、我らの天の父が、その通りだと神様として聴かれて、全能の父なる神様の救いの御業を行われるからです。

三位一体の父は、もし地上から私たち全ての人間が罪で滅び去っても、三位一体の御子の父として永遠に完全な父なのです。なのにその御子を犠牲にされてでも、父は我らの父と呼ばれることを望まれる我らの天の父なのだと、御子ご自身が言われるのです。だから、こう祈りなさい。天にまします我らの父よ、御名があがめられますように。何故なら我らの主イエス・キリストの父なる神様が、我らの天の父だからです。