マタイによる福音書5章43-48節、レビ記19章18節「愛するか否かの基準?」

23/7/9主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章43-48節、レビ記19章18節

「愛するか否かの基準?」

先週、全国キリスト教障害者団体協議会を4年ぶりに対面で開催することができました。夜、教会子ども食堂の証を聴いた際、常にヘルパーさんが一緒におられる姉妹が、ヘルパーさんに言葉を聴きとってもらいながら、こうコメントされた。困っていて、苦しい時に孤独を感じて、誰かと話したいと思うことに、障害者も子供も大人もない。皆同じだと。私はそれを聴いて本当にそうだと思いました。そして今朝の礼拝のため与えられた御言葉に向き合って思うのは、敵を愛しなさいと言われて、もしそうした具体的状況の中にいたら、心が苦しくなる。それもきっと皆、同じじゃないかと思うのです。

迫害する者、追いかけて来て追い詰める者のために祈りなさいとも言われます。苦しくても、それなら少しできそうかもしれません。祝福を祈るのは苦しくても、愛せない私を憐れんで下さい、悪から救い出して下さい、天にまします我らの父よ、そして悪に勝てなくて迫害するこの人をも、父よ、どうか我らを悪より救い出したまえと、そのために来て下さった十字架の神様に、苦しみをお委ねする以外あるでしょうか。

自分に敵対する人、あるいは自分が敵対して敵だと思っている例えば徴税人や異邦人、自分が嫌いな人を、愛しなさいと言われる時、主は、すごく日常的なことを言っておられるように思われます。「自分を愛してくれる人を愛したところで」とか「自分の兄弟に挨拶したところで」と、私たちも今朝きっと礼拝に来て、また来る前に既に挨拶したであろう、日常の愛の姿を見せて下さる。そして、その日常の愛が不完全な事実に向き合わせた上で、神様に向き合わせられるのです「あなたがたは完全な者となりなさい、あなたがたの天の父が完全であられるように」と。人の不完全な愛を、その私たちを救うために御子をくださった父の完全な愛に、そして、それ故に完全な父との愛の関係に向けさせるのです。

私たちが生きる日常の問題は、愛の問題であることを誰が疑うでしょう。愛が不完全なのに、これでかまんと愛も自分中心になり、それで敵なんかが生まれてしまう。敵対関係と言うように、敵とは関係の病です。関係の病で苦しむのが、皆同じなのです。敵を愛せない。愛したいと思う心と、嫌だ愛せるかと神様も拒絶したい心が葛藤する苦しみも、皆知る苦しみだと思います。そして愛さなくていいと思う自分を愛したい人間の限界、自分に負ける不完全な到達地点に倒れ込み、もうえいと思う。不完全な自分!に固執すれば行き詰まるしかありません。言わば天動説で宇宙の答えを求めるのと同じです。自分が中心だと、間違った答えしか出ない。更に違う考えの人を異端だと迫害し敵視さえしてしまう。中心を神様に変えるしかないのです。神様中心で日常を生きる悔い改めの中でわかるのです。そうだ、神様が愛なのだ、私は不完全だけど、その私のために死なれた神様は本当に完全だと、私の神様として神様がわかる。では私は、誰として生きればよいのか、いや既に生かされていて、もう完全に背負われ愛されている私は、父が御子を身代わりにしてでも償い救うと、赦され父の子とされた、それが私だと、神様がわかれば、私がわかる。そして変わる。罪から救われ、自分中心から癒されていくとも言える。

不完全な、自分中心の愛も癒されていきます。相手が誰であろうと、神様が命を捨てられるほど愛される相手として愛するように。それでも愛せない感情と向き合いながら、向き合うことさえ苦しくて、イエス様、自分では負えない愛する重荷を一緒に負って下さいと叫ぶこともある。羊のために命を捨てられる羊飼いに、信頼して祈ればよいのです。時に愛することを休んでも、父の子としての愛に生きる救いは、あきらめないで、弱い私の小さな愛を父は喜んで用いて下さると、信頼してよいのです。あなたがたの光を人々の前に照らしなさいと言われたキリストの名にかけて、父が私たちの小さな愛を聖められるからです。

先に読みましたレビ記19章はこう始まります「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。それが完全な者です。わたしの聖なる愛に生きよと主は言われる。主の愛を信頼する信頼関係の歩みそのものが、私たちの愛を癒します。心を自分自分から癒します。そして私たちが祈る関係の病も、敵を愛しなさいと言われるだけでなく、命がけで愛され背負い抜かれた十字架の主が、この病も背負って導いて下さると、信頼して、愛してよい。

私たちは皆、神様の犠牲によって償われ赦されなければ救われない、いや、それほどまでに救われなければならない、神様の愛する人です。その一人一人に、赦しの雨が、全ての人に向けて天からもう既に降って来た。キリストが来て下さった。そのことを自分のこととして信じて、父を中心に生きればよい。全能の父から赦された者、救われた者として生き直す時、世界は自分を中心に回ってない事実に心が楽にさえなる。愛することを、祈りから始め直すのです。天にまします我らの父よ。父中心の愛の日常は、聖なる愛の父を呼ぶところから、始まるからです。