マタイによる福音書5章38-42節、イザヤ書50章4-9節「自分の復讐より大切な」

23/7/2主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章38-42節、イザヤ書50章4-9節

「自分の復讐より大切な」

悪人に手向かってはならない。あるいは、歯向かってはならないとも言えます。歯をむき出しにして悪に歯向かうことは、もうやめにしようと主は言われます。それでは幸せになれないのです。本当は幸せになりたくて、私たちは、あれをしよう、これはやめておこうと考えて生きているのに、そこに悪が割り込んできて自分が思う幸せを奪われたと思うや否や、お前が幸せを奪ったから、目には目を、悪には悪を、その何が悪いと、悪のやり方に流されやすい。自分も自分を押し通す権利があると。そうやって無理強いして相手が自分を押し通した結果、こうなったのに、その自分を押し通す悪を、自分も自分を押し通して何が悪いと、同じ悪のレールに乗り、幸せに立ち返る道を自分からも失って、悪の渦に、ぜんぶ相手が悪いと沈んでいく。その私たちのもとに神様が自分を捨てて飛び込んで来て下さって、そっちは滅びだと、悪より救い出して下さる。私たちが本当に求めている幸せの道は、こっちだと、ただ道を教えるだけでなく、わたしについてきなさいと、必ず共にいて、幸せに導いて下さるのが十字架の神様、イエス様なのです。

目には目を。それは目をつぶされたら、何としても相手の目をつぶすのが正義だ、つぶさないのは悪だと言うのではありません。それ以上の裁きは悪だと、正義と悪の線引きをする法です。いや自分が受けた悪はそんなもんじゃない、自分は!と感じるのが人間だからでしょう。42節で「求める者」「借りようとする者」も、必ずしも悪意で自分の求め必要を押し付けて、渡せ!貸せ!ケチ(笑)と言う人ばかりじゃないのに、何で私が?他の人に、と自分が嫌な悪い気分になるから言われるのじゃないでしょうか。律法も相手の思いも、何故か自分中心に考えて、神様とも隣人とも、信頼と愛の関係で、はいと生きられない。その悪からの救いを、主は、すぐ右の御言葉から続いて、具体的に教えられるのです。

幸せに生きたい。誰もがそう願う。でも生き方を知らない人もいる。無知ゆえ、これが幸せだと悪を行う人もいる。では教えられたら、はいと幸せに生きられるか。その幸せの御言葉を聴いてきました。特に今日の御言葉につながるのは「柔和な人々は幸いである」「憐れみ深い人々は幸いである」(5:5,7)。自分自分の態度を捨てる柔和と、自分より相手のことを思う憐れみに生きる幸い。そうだ、それが幸せだと、聴くと思う。では神様から、あなたもこの幸いに共に生きるだろうと向き合われたら、はい、と神様に向き合えるか。もし心の内に、右の頬をぶたれるような苦しみを受けた記憶が感情的に沸いて出たら。あるいはこの後そういう悪を人から受けたら。だってと、自分の怒りは正しいと、自分は正しいと、うつむいて、神様にすぐに向き合えないのが私たちであることも、きっと知っているのではないでしょうか。仕返しをしたい。目には目をの本当の意味を知っても、目には目を!と復讐の気持ちが勝って、そしたら幸せになると思いさえするほど、悪に歯向かいたい誘惑に人は弱い。頭では柔和と憐れみに生きる幸いを知っていても、人には赦しちゃりと言えても、自分の目が人につぶされたら、それだけ大切な自分のものが悪意でなくても奪われたら、同じ苦しみを相手にも味わわせたい復讐の気持ちに蝕まれる。柔和と憐れみに生きる幸いを、人から言われただけでは、復讐の感情を捨てられない。本当は捨てたいのに。その自分自分の悪の誘惑の強さを、知らない人はおらんと思います。

幸いの御言葉に、はいと生きられない。その悪からの救いを、だから十字架で泣き叫んで死なれた神の御子が、それでも救うからと実現して下さるのです。柔和にはなれないと心が貧しくても。憐れみたくないと魂が泣き叫んでも。主は、わたしが背負っているからと。暴れる怒りも。神様のやり方は信じられない、嫌だと、うつむく不信仰も。わたしが共に歩むから、悪から救われる柔和と憐れみの幸いの道を共に行こうと。誰からも強いられてないのに、何があっても一緒に、どこまでも一緒に神様が私たちをあきらめないで、愛も信頼も捨てないで、救って下さる。だってあなたはわたしの愛する者だ!と、神様が柔和で謙遜で、憐れみ深いから、救われる、救われよと言われる。わたしのもとに来なさい。わたしは捨てない、わたしは責めない、自分を信じられなくなった自分に疲れた者、もう嫌だと重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませようと、私たちのために自分を捨てられた神様の幸い、柔和と憐れみの中で、私たちは悪から救われるのです。

主が、わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学んで一緒に歩もうと向き合い続けて下さり、はいとお従いし、私が知ったのは、私が悪に弱いこと。悪に歯向かう誘惑に弱いこと。そしてその私を愛される主は強いということです。左の頬を向け自分を捨てる愛に歩もうとしながら、どうしてと苦しまない人はおらんと思います。その弱い私たちを十字架の主が愛し抜かれて、憐れみの勝利が証しされるから、弱い自分のまま主に従えばよい。その憐れみに生きる光に、世は幸いを見るからです。