マタイによる福音書5章27-30節、レビ記18章1-5節「そこまで聖い結婚関係」

23/6/11主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章27-30節、レビ記18章1-5節

「そこまで聖い結婚関係」

だから神様が私たちの救いとして、自分を捨て、地獄の裁きを、その全身に受けられて、代わりに捨てられに来て下さったのです。

その主イエス・キリストが言われるのです。あなたたちのため神様が備えられた幸せな生き方に、従わせないよう「つまずかせる」生き方、考え方、欲し方を、あなたから切り離して捨てしまいなさい。そのほうが本当に幸せになれるから。その幸せを神様が欲しておられるからと。

先に読みましたレビ記でも、あなたは誰に従って歩むかということが繰り返し強調されました。つまずくというのは、そこで神様の幸せに、はいと従えなくさせることです。主が、わたしについてきなさい、幸せはここにあると招いておられる生き方が一方にある。その反対方向に、自分がしたいことをしたほうが幸せだ、その何が悪いと、人を自分自分の罪の奴隷へと誘う、つまり神様の愛の正義を捨てさせる世の生き方がある。私たちはどちらかに従う。心では神様に従いたいと思いながら、目が肉体の欲望に引きずられ、ロトの妻のように、反対向いて石になるなら、その欲望の眼差しは、やはり捨てないと、それを持ったまま主に従いたいと思っても従えない。その現実を、私たちは皆、知っていると思います。違うでしょうか。

それは目が、欲しいものを見てしまう、見つめてしまう問題だけではない。手の問題でもある。最初の人アダムとその妻エバもそうだったと創世記は悲しくも厳しい、そして私たちに知恵を与える証言をします。食べたらいかん実を、見つめた。手を伸ばした。そして食べた。自分のものにした。自分の体と一つになるほど、自分のものにしてはならない、自分のものではないものを自分のものにした。それが特に「姦淫してはならない」という律法をめぐって、主が言われる姦淫の急所、そして姦淫が汚し破壊する、結婚関係の急所です。

これは次週、またそれを更に詳しく教えた後の章(19:3-12)での急所でもありますが、神様が創られた世界の基礎は、主が定められた聖なる結婚関係です。「それゆえ人は父母を離れてその妻と結ばれ二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく一体である。」それが、わたしはあなたのものあなたはわたしのものという、神様が定められた世界で唯一排他的な関係、結婚関係であり、その祝福を壊すのが姦淫です。

その聖なる一体の急所は、先のレビ記でも繰り返し言われていました。「わたしはあなたたちの神、主である」。わたしは誰の神なのか?敢えてハッキリ言えば、わたしは誰のものかと言われる。譬えるなら、義しい意味で嫉妬する聖なる妻が出張に行く夫に言う。わたしはあなたのものだからね、他の人たちが違う生き方をしていても、あなたはわたしの夫だからね、他の人に手え出いたら、しまいぜよと(笑)。なのに手を出すとしたら、何を欲して浮ついて話しかけたり、物をあげたり、おしゃれしたり、そして、こっそり、あるいは敢えて見つめたりするのか。その相手は自分のものではないのに。心の中で自分のものであるかのように欲して、あるいは見るぐらいならいいじゃないかと欲する。自分のものではないのに。それが姦淫だと「わたしはあなたのものだ」と言われる神様が、それは死ぬほど捨てないかん滅びだと説得されるのです。

もし私たちの結婚相手が、自分以外の人を、心の中だからいいだろうと欲し、手を出すことについては言うまでもないですが、見るぐらいはかまんと許可されるでしょうか。逆に他の人から、心の中で自分のものとして欲するぐらい、誰にも迷惑かけんからえいろうと、その人のものとして好きに見られるのは、かまんでしょうか。今は結婚されてない方も、神様が自分のものとして用意して下さっている人が、まだあんたのものやないきえいろうと手を出されるのは…えいはずがないでしょう。

若い頃カラオケで歌った「好きな誰かを思い続ける、時代遅れの男になりたい」と、妻も子もいるのに思い続ける歌を、妻は聴きたくないと思います。私もよう歌いません。子供にも、まあ歌わんでしょうが(笑)、そんな男にも女にもなって欲しくないし、だから今からそう欲しない、神様が聖なる結婚において自分を誰かのものとして祝福して、ひとつにしてくださる幸せをこそ欲して、神様の幸せに、はいと従って欲しい。私も妻も、誰であっても、この幸せに生きて欲しい。その幸せのために神様が自分を地獄に棄てて下さったのです。だからあなたはこの幸せを捨てるなと、それを捨てる生き方、考え方、欲し方をこそ捨てなさいと、死ぬほど私たちの幸せを欲して下さるから、わたしはあなたの神だからと欲して下さるから、私たちは神様の幸せに、はいと従う。そして自分のものではない誰かを欲する姦淫は捨てて、妻を夫を愛するのです。

幸せになりたいと欲しながらも、自分で幸せを捨て、また捨てられる悲しい罪の世で、その悲しみを自分でも知りながら、だから神様の幸せにお従いする生き方を、子供たちは見る。人々も見ます。そこに世の光を見て、神様を求めるようになるほどの祝福が、ここにはあるからです。