マタイによる福音書5章5節、詩編37篇7-29節「勝ち取らない柔らかさ」

23/4/2棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章5節、詩編37篇7-29節

「勝ち取らない柔らかさ」

人となられた神様が、その全責任を負って約束して下さる「幸い」の御言葉を聴き続けています。その三番目に約束されるのが「柔和な人々」の幸いです。柔和な人。もとのギリシャ語では、すぐ怒らん、イライラをコントロールできる大らかさのことを言うようです。確かにそうした大らかさがあれば、人のことで振り回されない。自分の思い通りにならんでも、振り回されない心の幸いを得られるかもしれません。思い通りにならなくても、心を騒がせなくて済む。自分の思いが勝たなくてよいと、大らかな心で人に向き合い、思い通りにならない人生に向き合えるなら、確かにイライラして過ごすよりは幸せだと思います。

でもそうした幸せは、主が十字架の王としての全責任を負われて宣言された幸いとは別の幸せに、勘違いされやすいとも思うのです。わかりやすく言えば、あの人は大らかで幸せだと、人を見て思う幸せは、神様抜きで思う幸せになりやすい。あるいはそれで妬むこともあるかもしれません。私も柔和になれれば楽に生きられるのに、何で私は柔和になれないのか、信仰がないからかと卑屈になる。あるいは自分はこんな性格に生まれたから、こんな環境で育ったから、だから柔和になるのは無理だと思うのも、ここでイエス様が約束される「地を受け継ぐ」から幸いな柔和とは別の柔和と幸せを、神様のご支配を脇に置いた人間の幸せと柔和とを、考えやすいからかもしれません。

先に聴きました詩編37篇の御言葉にも「地を継ぐ」という約束が繰返されます。神様から受け継ぐ。子が親から土地を受け継ぐようにです。勝ち取るのではない。親子だからという関係の故に、地を受け継いで、そこを治める。おそらくイエス様は、その中の「貧しい人は地を継ぎ」(11節)という御言葉を思われながら「柔和な人々は幸いだ」と約束されたのです。「貧しい人は」。そのギリシャ語訳が「柔和な人は」という御言葉の由来だからです。

貧しい人、持ってない人を、柔和な人と呼ぶ。世界が、持っている人を幸せと考えるのと正反対です。無論、何を持ってない貧しさなのか。それが先の詩篇でも、この山上の説教でも繰返し強調されて、あなたもこの幸いな人になれと招かれるのです。誰が地を継ぐと詩編は語るか。「貧しい人」のすぐ前では「主に望みをおく人」。そして「主に従う人」「主に従う人」と繰返され、これがどんな貧しさか明確に示されます。その貧しさは、主に望みを置き、神様のご支配を信頼する故に、自分に望みを持たない貧しさです。自分を信じるより、主なる神様のご支配を信頼するから、自分の思い通りにならなくても、主が働いておられるのならと、怒らなくてすむ。あるいは怒りを治められる。怒りを支配させていただけるのです。もし怒りが沸き上がっても、神様の恵みと憐れみのご支配のもとに自分はあるのだと、ハッと目を覚ますように覚えて、主よ憐れみたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえと祈ることができる。そこに御国は来る。私と共にいて下さり、背負い続けていて下さるイエス様の憐れみのご支配によって、主を信頼する私たちを通して、この地に、キリストの柔和なご支配がなされるからです。

イエス様が3節で約束された幸い「天の国(神様のご支配)は、その人たちのものである」が、そこに実現する、満たされるとも言えます。そこでも直訳は「霊の貧しい人々」が幸いだと約束されたのです。神様の前に貧しい、神様を私は持ってないと思える貧しい私たちに、だからわたしが来たからと、神様が十字架で私たちを背負われ罪を背負われて死んでしまわれるほどに、ご支配してくださる。そのイエス様の柔和なご支配を信じる地で御心がなる。主を信頼し、自分を信じなくて済む、貧しい柔和な信徒たちの幸いを、柔和な王が実現されるのです。

棕櫚の主日の礼拝で、この幸いな柔和の御言葉を聴きながら、ハッと気づかれた方もおられるでしょう。五日後の受難日には十字架で償いを成し遂げられる王が、ろばの子、子ろばに乗ってエルサレムに上られた日曜日!群衆は道に木の枝、棕櫚を敷いて、ダビデの子、私たちを救いに来られた約束の王に幸あれと叫んだ。でもその救いが自分の思い通りでなかったので五日後こう叫んだ。十字架につけろ。自分の思い通りが幸いで、それ以外は呪いだと思う罪。神様を持たず、神様がわからない霊の貧しい人々を、だから背負われる王のご支配が預言通り実現したと、そこでマタイは告げるのです「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」(21:5)。私たちの幸いをこそ死ぬほど求められ、そのために人となられた柔和な王が、王としての全責任を負って約束された幸いを信じて良いのです。自分を信じることも、それが幸いだと信じることも、柔和な王に背負われて、十字架でそれはもう終ったと葬っていただいて、私たちは神様の恵みのご支配を迎える復活の光のもと、新しい人として生きて良い。キリストが約束される柔和な幸いを、信じて歩んで良いのです。