マタイによる福音書5章4節、イザヤ書61章1-4節「涙をぬぐって下さる主」

23/3/26受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章4節、イザヤ書61章1-4節

「涙をぬぐって下さる主」

もうすぐイースターです。まだ来ていません。でも必ず来ます。もしその前に、イエス様が帰って来られても、それこそ永遠のイースター、復活が訪れて、イエス様がすべての涙をぬぐって下さり、悲しむ人々は慰められる。すべての涙が、すべての人間の悲しみが。まだ、その日は来ていません。でも必ず来る。必ず慰められる。悲しみの重荷を降ろす日が来ます。そしてその重荷をずっと負っていて下さったイエス様に、ありがとうございましたと、心からの笑顔を主に献げて礼拝できる日が来る。今はまだでも。必ず幸いな慰めが訪れてくれる。

「慰められる」。受け身です。自分で悲しみを克服しろというのではありません。慰めは、自分の外からやって来るのです。慰めると訳されたもとの言葉は、誰かがその人のかたわらに立って呼びかけるという言葉です。悲しむ者のかたわらに誰かが寄り添って、心に呼びかける。何と呼びかけたらよいのか。私たちはそこで立ちすくんでしまうことも多いと思います。悲しむ人のかたわらに居るのが、はばかられるのは、一体何と呼びかけたらよいのか、慰めの言葉が見つからないからでもあるでしょう。万能薬のような言葉のないことを知っているからです。下手に頑張りよと言って、ならもっと頑張らないといけないのかと更に重荷を負わせる言葉をかけるよりは、心に呼びかける言葉を失ったまま、心の貧しい者として、イエス様の名を呼べばよい神様の前に、私は貧しい者、慰めの言葉を持たない者ですと、心の内で、イエス様と呼んで、主が救って下さる!というお名前を負われた救い主の名を呼んで、どうかこの悲しみを慰めて下さいと、復活の主に祈る。

既にそう祈っておられるとも思います。でももし本当は慰めの言葉をかけるべきなのに、祈ることしかできないと思われるなら、改めて3節でイエス様が約束してくれた貧しさの幸いに共に立ちたいのです。

「心の貧しい人々」直訳は「霊の貧しい」神様の前で貧しい欠けた者に、主は約束されたからです。「天の国」神様の救いのご支配は、あなたたちのものだと。その憐れみ深い神様が、私たちと共におられることを信じて、イエス様と呼んで祈れる幸いに立って祈る。ここに来なさい、ここに立ちなさいと招かれる、キリストの憐れみのご支配の中に立って祈る祈りは、その人の悲しみをイエス様と共に担う祈りだからです。

それは祈ることしかできない祈りではありません。悲しみをイエス様と共に負う祈りは、決して祈ることしかできない祈りではない。主と共に負う祈りです。執り成しの祈りとも言われます。悲しみを担う祈り、苦しみを担う祈りとも言えます。そこで私たちは悲しみを負われる主の弟子として、祈りの内に悲しみを負い、互いの重荷を負い合う幸いに、与らせていただいているとも言えます。そしてその私たちを主が、その憐れみのご支配の内に、一緒に負っていて下さるのです。

この御言葉を黙想しながら、イエス様が十字架に釘打たれた時の傷の跡が、どうして復活後も完全に癒されないまま残っていたのだろうと、長く心にあった問いに思い至りました。それは主が私たちの悲しみを、悲しまずにはおられない私たちを、ずっと担い続けて下さっている主であることを、示されるためではなかったか。あなたは十字架で背負ったから、もう担い終わったということでは片付かないあなたの悲しみを、わたしは今も共に負う、あなたの主だと。常に悲しむ者のかたわらで、その悲しみを決して通り過ぎない、あなたを一人にしない神であると、イエス様は、今も十字架の愛の傷を、ずっと負われている。釘打たれた両の手で悲しみを担われ、その胸の奥深くまで突き刺さった傷の跡が、その幸いの約束は決して嘘ではないと証言するように、主は悲しむ者を決して見捨てず、ずっと慰め呼びかけておられる神様だからです。

だから、今、その慰めに悲しみを癒されなくても、悲しみで心が痛み続けて、なぜ神様はこんなことをするのかと神様を責めずにおられない時も、主はその悲しむ者を責めたりなさらない。むしろ、だから、その悲しみを、わたしは共に負う、あなたを一人にすることはないと、主はその傷の跡をずっと私たちのために治されず悲しみを共に担われます。必ず、その重荷を降ろす日は来るからと、必ず慰められるからと、幸いを約束される神様なのです。悲しむ人々は幸いであるとは、この十字架の神様でしか約束できない幸いです。

今、慰められていなくてもいい。もとの言葉が未来形ですから直訳で「慰められるようになる」と訳すこともありますが、それは単に時間の問題ではないのです。一体どなたがその慰めを保証し約束して下さっているかです。神様です!神様を責めて、神様のせいだと思う悲しみをも担われて、その責任はわたしが負うからと、十字架で死なれた神様が、本当に私たちが、その神様によって幸せになるための全責任を負って、担い続けていて下さる。だからその約束のもとで祈ればよい。まだ来てなくても、必ず慰めは訪れて、すべての涙はぬぐわれるからです。