ローマの信徒への手紙15章17-21節、イザヤ書52章10節「へりくだり誇れる救い」

22/12/18 待降節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙15章17-21節、イザヤ書52章10節

「へりくだり誇れる救い」

自分がしていることの何かに誇りを持てるのは、まことに幸いです。しかも、人と比べたり自慢したりしなくてよい、神様にも人にも謙った謙遜な誇りを持てる。それがキリスト者に与えられた誇り、キリストが私たちを通して、人々の救いのために働かれるという誇りです。

17節「神様のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思う」の直訳は「神様に向き合ってのことを、キリスト・イエスの内で誇りとして持っている」。イエス様の内で持っている誇りですから、自分に根拠はないのです。キリストが、あなたを通してわたしが働くと、私たちを恵みの業として下さるから、主よ、ありがとうございますと、キリストの恵みをこそ誇る。そこに人と比べる余地などないでしょう。

そうして私たち異邦人をも神様に従わせて下さるキリストに、はいと身を献げ、人々の救いのために祈る。イエス様の証しとして愛し、献身する。それを「神様のために」神様に身を向けて、献げるのです。人を見て献金せんように(笑)。あれぐらいでいいかとか(笑)。むしろ私たちは神様を見て、お用い下さいと、愛を献げるのです。

人を見て、ほら、やりゆうでえ、頑張りゆうでえ、あなたのためながでえと何かを行っても愛は実らない。たぶん誰もが知っています。でも逆に、トラクト配りとかそうかもしれません。何しゆうがやろうと白い目で見られることもある。人の目を気にしよったらできません。だから私たちは神様の愛の眼差しを気にします。それが「神様のために働く」ということでしょう。そしてその働きの結果も、神様にお委ねする。

私たちの働きの評価も結果も、全部、神様にお委ねしてよいのです。キリストが私たちを用いられて、その言葉も行いも、キリストのしるしとされて、聖霊様によって救いのお働きとされることを、本気で信じて良い。それが委ねるということでしょう。

礼拝前、礼拝奉仕者で祈る時に「仕えます私たちを聖めて主の救いの御業として下さい」と必ず祈ります。皆さんも、同じようにお祈り下さい。イエス様、私の今日の言葉と行いを、御業として下さいと。聖餐式の祈りでは「私たち、主の体のえだである自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように。また、キリストの復活の力を知りその苦しみにあずかり、おりを得ても得なくても、御言葉を宣べ伝えることができますように」と祈ります。「その苦しみに与り」とは、おそらくコロサイ書(1:24)で「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」という御言葉から取られたのだと思います。復活されたキリストの力が今、教会に働いているのを、どこで知るかと言うと、キリストが人々の救いのため今も私たちを通して働いておられる、その働きに伴う愛の苦しみ、愛が通じない苦しみ、でも愛するから生じる自己犠牲の苦しみの中で、教会はキリストの名を呼ぶのでしょう。例えば、今?というタイミングで、助けが必要な相手を、自分のことよりも優先する愛の選択の中で、神様に向き合って、キリストの苦しみに与った記憶がないでしょうか。そこで、このタイミングは神様やという思いを聖霊様から与えられて、はいと自分を後回しにしたキリストの働きを、イエス様ありがとうございますと誇れる。用いて下さいと祈れる。その幸いに皆、与るのです。

そうした働きが、もし感謝されなくて、理解されんことがあっても、その苦しみは十字架の主が誰よりもご存じです。そこにこそキリストは近くおられて、あなたはわたしに尊く用いられていると言われます。主の十字架の働きが一層そこに働かれて、愛は忍耐強い、今こそ、わたしがあなたに働いていると、キリストを誇る恵みに与るのです。十字架に与りながら、自分の何も誇れんし誇りたいとも思わんのです。主が私に働いておられると、キリストに背負われて信じている。そこに私たちの誇り、キリストの救いを宣べ伝える福音伝道の誇りがあるのです。

19節3行目で「こうして私は」と、御言葉はパウロが召された恵みを証ししますが、私たちも証しできるのです。一人一人、どのようにして自分が、キリストによって、その御体の一肢、教会の一肢として洗礼を受け、あるいは転入会して、キリストの御業とされて用いられているかを。そこで謙遜に神様に向き合って、主よ、あなたが私を「こうして」捕らえ、私は恵みによって今ここにいるのです。恵みの主よ、あなたの十字架の恵みによって私を、この姉妹のために用いて下さい、この兄弟をお救い下さい、聖めて御用に用いて下さいと、キリストの愛の苦しみに与って、祈りお仕えすることができる。それはその全てが、キリストの恵みによって始まったから。そして私たちが地上での最後の息を吐き出す時まで、キリストが!全くの恵みによって私たちを用いられるからです。「キリストの名がまだ知られてない所で」十字架の大いなる恵みが信じられてないところでこそ恵みによる救いの福音が告げ知らされるために、キリストが私たちを聖め、遣わされ、用いられるからです。このキリストの御名を、教会は呼び、賛美して歌い、誇るのです。