ヨハネの黙示録22章12-17節、イザヤ書60章1-7節「命渇く者は来なさい」

20/11/22主日礼拝説教@高知東教会

ヨハネの黙示録22章12-17節、イザヤ書60章1-7節

「命渇く者は来なさい」

次週から待降節が始まります。ラテン語でアドベント。来る、到来するという意味です。主が来られる。やがてまた天より降り来られる主を待つ季節。その待降節に、今年は毎年クリスマスイヴ礼拝で聴く5つの御言葉を、共に聴きたいと願いました。今朝の御言葉は、その5つの内、最後に聴く、黙示録の御言葉です。

ただ待降節は次週からなので、何だ牧師はアドベントが来るのも待てないじゃないか(笑)と叱られそうですが、教会で最も大事なことは、最初のアドベントはもう来たという事実です。つまり、神様が人として来て下さった。世の罪を取り除く神の小羊として、もう来て下さって、世界の償いを成し遂げて下さった。そのアドベントはもう来ている!それが一番重要なアドベントですから、クリスマスの主が、もう来て下さった光のもとで、待降節を迎える備えをしたいと願います。

キリストが、もう既に来て下さり、十字架で世の償いを成し遂げて下さった。そのキリストが、再び来られるのを待ちつつ、私たちも御言葉に声を合わせて「来てください」と主に呼びかけるのです。それは主に向かって、私たちの救いはまだ完成していません、私たちは救いの完成を待ち望んでいるのですと呼びかけ、切望する祈りとも言えます。今、自分に必要なものを願うだけが祈りではない。今の先、あるいはもっと先にあるゴール、完成を求めて霊がうめく。それがアドベントの祈り、キリストを待つ祈りです。

17節で「来てください。」と祈るのは「霊と花嫁」つまり、キリストの花嫁と呼ばれる教会と、教会を花嫁として洗礼によって聖め、また日夜整えて下さっている三位一体の聖霊様です。さあ、あなたはキリストのものなのだから、これから花嫁として主人と結ばれる婚礼の日を迎えるのだから「来てください」と一緒に祈るよと、私たちが誰として救われるのか、キリストは私たちにとってどなたであるのかをブレないように整えて下さる。嫌でしょう。花婿を待ってない花嫁。逆も、また然り。イエス様は、私たちを激しく待っておられます。「渇いている者は来るがよい」と言って下さる。まだ完成してないだろう。あなたに本当に必要な完成に、あなたは渇いているだろう、わたしも待っていると主ご自身が待っていて下さる。その時が来たら、わたしはすぐ来るからと。

「すぐに」という言葉は、定められた時から遅れることなく、遅刻をせず、という言葉です。例えば私たちの教会は10時から礼拝を始めます。10時になったらすぐ司式者が、礼拝を捧げますと告げて、すぐオルガン奏楽が始まります。だから早くから来ていても10時から始まると知っておったら、待つのはそれほど困難ではないと思います。けれど、いつ始まるのかがわからんかったら、いつまで待てばよいのかと思う。

それが、キリストが来られる時についての言わば誤解を生むのでしょう。わたしは来ると言ったその時から数えて、すぐではないからです。むしろキリストは弟子たちに、こう言われました。その時がいつになるかは誰も知らない。御子ご自身も知らない。父だけがご存じである。だから気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからであると。(マルコ13:32f)

でもその時が来たら、イエス様は0.1秒の遅れもなく、すぐ来られる。ビーチフラッグのように。天の父が、今だ。シュン!はい来た!決してダラダラ来ない。来る時になったら、すぐ来られる。飛んで来られる。イエス様こそ目を覚まして、天の父の号令を、今か今かと目を覚まして待っておられる。ぐずぐずされることは決してなさらない。

そして同時に、ただその時を待っておられるだけでなく、渇く者なら誰もがイエス様のもとに来るのを、目を覚まして待っておられる。まだ救いが完成してないからです。門は開かれているからです。

先に、最初のアドベントの時、十字架で世の償いは成し遂げられたと言いました。償いは成し遂げられた。けれど、その償いを受け入れて、人がキリストと結ばれて救われるという救いは未だ完成していない。それは譬えるなら、婚礼の祝いの宴、食事会で、既にご馳走は完成しているけど、それを食べる人がおらんと完成しないのに似ています。ご馳走だけ作って満足する人はおらんでしょう。食べてほしいと思って、飲んでほしいと願って、腕を振るうのじゃないですか。その婚礼の祝いの席に、誰もが呼ばれ、招かれているのです。そこに私たちもいて、命の水を飲んで、まだまだもっと救いの喜びの言わば酔いが回ってくるのをも待っていると言ったら、土佐の人には通じやすいでしょうか(笑)。最高の時はまだ来てない。そして本当はそこに来なければならない人々も、まだ来ていない。ここにいない。主も待っておられる。私たちも待って祈っている。今朝の御言葉が描くのは、婚礼の食事会ではなく、聖なる都の門を通って都に入る人と、まだ外にいる人々のイメージです。厳しい言葉が言われます。でもその人々のためにも主は十字架で死なれたのです。人を殺す者どころではない、神様を殺し、いないことにして、自分の思い、生き方を通そうとする、それが神ならざる偶像を拝む者でしょう。偽りを好み行う者と言われていますが、私たち自身の内にも偽りがあるのでなかったか、汚れが私にはないと言える人がいるのでしょうか。いないから、その汚れを洗って、キリストの十字架で流された血潮によって洗って都の門をくぐるのです。誰でもその洗いを受けることが許されているからです。価なしに来なさい、わたしがあなたを洗い清めて、赦しも命をも満たすからと、キリストが命の門として、すべての人を、永遠の都に、聖なる婚礼の喜びへと招いて下さっている。そして、待っておられるのです。来なさい。わたしのもとに来なさいと。私たちを命を懸けて愛し赦して、永遠の聖なる喜びの光のもとに生きようと、待っておられる。

そして、やがて聖なる天の父から、時が満ちたと聴く時に、すべては完成するのです。

いまは待つ時。信じて待つ時です。主は、待つ者、あるいは待たない者の行いの報いを携えて来られますから、ただ時が来るのを待つのではありません。「来てください」と、主を求め、私たちを待っておられる方を求めて待つのです。互いに待ち、互いに求める思いが絡み合うような祈りの中で、「来てください」と、主を待つのです。

待ちながら、祈りながら、でも悲しみもある。寂しい思いもします。欠けているからです。足りてないのです。だから渇く。偽りの必要ではない、真実の私の、そして私たちの必要に渇く。ここにいなければならない人がいない。主も渇かれる。ここに来なさいと、十字架で、わたしは渇くと言われた方、世界の渇きと欠乏を背負われて苦しまれた方が、私たちの完全な救いに渇かれて、渇く世界に、おっしゃるのです。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。わたしが満たす。わたしが完成する。わたしはアルファであり、オメガである。わたしが始めた世界と命が、欠けて失われ罪に汚れても、わたしが洗う。わたしが見つける。わたしが全責任を背負って、世の罪を取り除いたから、あなたたちは、皆、わたしのもとに来なさい。欠けは満たされる。世界の渇きは永遠に癒される。わたしたちは永遠の家族として、永遠の父の御前で、永遠に生きるのだからと主は言われます。

だから今は悲しみがあり欠けがあっても、その欠け、渇き、悲しみを祈りに替えて「来てください」と祈るのです。悲しく思うたび、祈ればよい。主よ、来てください。愛の主が、私たち皆を待っておられます。