マタイによる福音書18章10-15節、詩編23篇「迷える羊を愛される神様」

20/11/15幼児祝福礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書18章10-15節、詩編23篇

「迷える羊を愛される神様」

【こどもせっきょう】

子どもたちは時々、迷子になります。大きなお店に行って、お母さんと一緒にいたのに、気づいたら、横にお母さんがいなくて、怖くなって寂しくなって、お母さん!って泣いてしまいます。

人は、そうやって神様の前からも迷子になります。迷子になった人に神様は何て言うでしょう。迷子になったあなたが悪いと、怒って捜しもしないなんてことがあるでしょうか?そんなこと絶対ないきとイエス様は、この羊飼いの話をしてくれました。

この羊飼いには100匹の羊がいます。その一匹一匹の名前を呼んで、山に連れて行きます。あるちゃん。メ~。いるちゃん。メ~。うる~。メ~。える~。メ~。おる~。メ~。…アルバイトの人が、え?全部に名前があるが?もちろん!さる~。ウッキ~。ぎゃる~。めっちゃメ~やし(笑)。色んな羊たちがいます。それから皆で山に行って、羊たちがご飯の草を食べよったその時!あれ?おるは?おるは?おるがおらん!おるはずの、おるがおらん!羊飼いは泣きそうになって捜しています。アルバイトの人たちにも、おるがおらんき、一緒におるを捜いて!え~だって他に99匹もおるんですから、1ッ匹ぐらい、おらんなったって、えいじゃないですか?どうしても100匹おらんといかんがやったら、後でまた買うて来たらえいじゃないですか?その羊やないといかんことはないでしょう?と言うんです。だから羊飼いは泣きながら言いました。おるは世界に、おるしかおらんがやき。おるがおらんなったら、おるがおらんなってしまうがやき。おるの替わりは、この世に誰一人おらんがやき!おる~、おる~と、羊飼いは一生懸命おるを探しました。夕方になっても、暗くて自分の命が危なくなっても。おるはもっと怖い思いをしゆう、もっと寂しい思いをしゆうきと捜し続けて、ついに、崖で足をくじいて弱っている、おるを見つけた。おる~!と抱きしめて、背中におんぶして、一緒におると家に帰りました。おるも、羊飼いも、一緒に喜んで笑いながら、家に帰りました。

そしてイエス様は話を聴いていた皆に言いました。これが神様です。この神様に愛されてない人は一人もいません。皆、神様に愛されている子供たちです。だからあなたも神様を信じてよいのです。

【説教】

いつも、こどもせっきょうで説教し終わった感があるんですが(笑)、改めて神様の御言葉に心を注ぎましょう。

羊飼いとして来られたイエス様が、こう言って下さいました。最初の10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」。

「軽んじないように」と訳された言葉は、上から見下さないように、という言葉です。相手は小さいですから、そしたら背も低く、見る人はどうしても上から見ることになりやすい。でもそれが単なる物理的な上下という関係を超えた〈上下の関係〉で、自分より小さく見える人を、下に見てしまいやすい。気をつけなさいと言われるのです。どうしたらよいのでしょう。

私はこのことを、教会学校で学びました。まだ牧師になる前、神学生だった時、教会学校に初めてお母さんに連れて来られた女の子がいて、もじもじ、お母さんから離れるのが、やっぱり怖そうにしていました。膝に抱きついて離れない女の子に、お母さんも困っていて、どうしたらえいろうと思った私が思い出したのは、教会学校の先輩教師たちの姿勢でした。いつも子供たちの目線で、あるいは反抗期の中高生の目線で、うんうんそうやねえと話を聴いていた先生たちを思い出して、すっと、しゃがみました。そしてその子の目線になったら、本当に怖そうな顔をしているのが伝わって、可哀そうにと心が痛みました。と同時に柔らかな笑顔になり、大丈夫、怖くないよ、一緒に行こうと手を出しました。するとその子が手を取ってくれ、まだ不安な顔をしながらでも一緒に来てくれた。無論しゃがめば良いという自動的なことではないでしょう。でもこの出来事は、誰かのために身を低くする喜びを学んだ、忘れ難い神様の愛のレッスン、あるいはキリストを証しする実技指導でした。

誰よりも神様ご自身が、身を低くされて、小さな者の友として、人になられて来て下さった。もうすぐ迎えるクリスマスの愛の出来事です。でも神様は、もう来て下さったのです。小さく、どんなに低い人よりも低くなって、罪ある世界をおんぶするように、お母さんが愛する子供のためにしゃがんで背負うように、神様は背負って下さった。私たちの罪を十字架で身代わりに引き受けて、小さな者たちを背負って下さった。誰も滅びてはならない、それは、わたしの心ではないからと。

そしたらあなたはどう生きるか?と問われるのです。人を自分よりも小さく見て、だって小さいがやもと開き直って、身を低くしない世界、裁き合い、自己正当化し続ける世界には、そのまま生きてはいけないだろうとおっしゃるのです。そのことで罪が何かもわかるのではないか。愛さないで高ぶること。無視すること。そうして神様の愛から迷子になった傷だらけの世界を、でも神様は、見捨てることはなさらんかったのです。自己責任やきに自分で帰ってこいと、自分も無責任になることは決してなさらずに、むしろ責任とは、どうしても罪を犯してしまうこの小さな者をも、愛する責任じゃないかと、十字架に架かって、罪の責任を代わりに引き受けて下さった。それが、その名を愛と呼ばれる、神は愛ですと呼ばれる、すべての人の主なる神様だからです。

だからその神様のなさったことを、私たちも真似るのです。学ぶとは真似ることであると言われます。子供も親を真似ます。そこは真似んといてと思うところも真似ます(笑)。よく見てます。見えてないのは自分だけ。人としての罪。愛さない罪が。私たちは子供に何を真似てほしいと願うでしょう。どうしてそこを真似てほしいと思うのでしょう。

神様は、この愛を真似てほしいと、低くしゃがまれるのです。それが本当に人間らしい命の在り方だから。神様の愛は、いつも低いところに花を咲かせ、その実を小さな者たちと一緒に喜ばれるから。その十字架の低さを真似るのです。神様の低さに愛の高さが現れるから。人はよく上から愛します。こんなに愛しちゃっちゅうのにと。でも神様の愛は、いつも人より低く下られ、それ故の苦しみに耐えられ、共に、あるいは代わりに泣かれて、一緒に復活の光を待ち望んで下さる。

この神様と生きるのです。羊飼いに導かれて歩むのです。何ができるできないで、愛される愛されない、愛する愛さないを決めてしまう罪の迷い道に迷っておっても、何度も何度も愛から迷い出ても、そのたびに羊飼いであるキリストが探し出して見つけて下さって、わたしがあなたの主だと言ってくださいます。わたしはあなたを何ができるできないで愛するのではない。あなたへの愛は、あなたが何をしたしないで決まるのでもないと言われます。あなたが犯した罪はわたしが裁く。悪いことは悪いと必ず裁く。でもそれをわたしはもう十字架で父の裁きのもとで裁いたから、わたしが代わりに報いを受けたから、だからあなたは滅びてはならない、わたしがあなたの道だから、わたしと一緒に父のもとに帰ろう、この愛の道を歩もう、神は愛だと背負って下さる。

だからこの愛に歩めるのです。子供を愛し、隣人を愛し、親を愛しても生きられる。キリストがその小さな愛を背負って下さるから。神様がその私たちを、見捨てずに愛して下さるから。だからこの祝福のもとに身を置いて、共に、キリストの名によって神様の祝福を祈るのです。