マルコによる福音書12章28-34節、ホセア書6章6節「そうです、神は愛です」

20/1/12主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章28-34節、ホセア書6章6節

「そうです、神は愛です」

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして隣人を自分のように愛しなさい。この御言葉を皆さんはどのような気持ちで聴かれたでしょうか。私は洗礼を受けた頃、これらの御言葉は私に希望の光を照らしているように見えました。そうだ、この通りに生きればよいのだと。でも改めてこの御言葉を前にして、今はひるむような気持ちがあることを否めません。愛してない自分を思うのです。つい、こう言いたくなる気持ちさえあります。だから大丈夫ですよ、愛さなくてもと。隣人を自分のように愛しなさいを、そのように自己正当化するために利用したくなる誘惑さえ、そこに生まれるのではないかと思います。もし、そこで自分を見つめるなら。

イエス様から「あなたは神の国から遠くない」と言っていただいた、この人。この人が見ていたのは誰だったかが28節で、こう言われます。「イエスが立派にお答えになったのを見て」。立派にと訳された言葉は、美しくという言葉です。イエス様が人を復活させてくださる神様を知ってほしいとの思いからお答えになられた姿は、この人に美しく見えたのです。更にこの律法学者は、彼の問いに、イエス様が愛の律法をもってお答えになられたのを見て、こう言います。「おっしゃるとおりです」。これもまた「美しいです」という言葉です。まっすぐな人だったのだなと思います。どの掟が一番先に来る、他の掟をまとめる中心となる掟でですかと、単に知識として知りたくて問うたのではなさそうです。それは28節で、先に読みましたホセア書を引用してイエス様に答えたことからも伺えます。形だけの宗教ではなく、実際に神様と共に歩むためには、どのように生きればよいのかと、求めておった故でしょう。

そのためには、中心となる教えがあるのではないのか。数ある掟を、何を中心に組み立てて理解すれば、神様の求められる生き方がスッキリ見えてくるのかを、知りたかったのだと思います。私自身、ここが聖書の中心であると、その名を愛と呼ばれる神様は、愛に生きることを一番に求めておられる、だって神は愛だからと、神様と人への愛を一番に、全ての中心に据えて、聖書も生き方も考えることで、まるでもつれた糸がほどけるみたいに、色んなことが見えるようになってきました。愛があると思っていた自分に、愛がないことも。そして、その私を赦して、受け入れて、わたしについてきなさいと、決してあきらめないで、招き続けて下さるイエス様が、だから愛なのだと、これが愛なのだと、この赦しと愛に生きるのだと、神様を信じて救われて生きる生き方も、愛を一番にする、この愛の律法から見えてくるのです。

生きることを整えていくうえで、優先順位を整理するのは大切です。例えば仕事の責任や社会的責任にも優先順位がありますが、社会の一番の基礎は夫婦そして家族の愛の関係です。その責任をおろそかにして、歪みが生じてしまう悲しみを知らない人はいないと思います。

そして同じ意味で、イエス様は、人が生きていくうえで、第一に優先すべきは、唯一の主である、あなたの神である主を愛すること、これが第一だと言われました。人より神様。神様との関係を、しかも愛の関係を一番にする。でないと、人との関係もおかしくなる。人間関係を自分中心で作ったり壊したり、自分でしてよいと思うようになってしまう。自分の都合に合わせて、替えがきくのだと考えてしまう。それは、替えのきかない唯一の神様を唯一の主とせず、何を主とするかは替えがきくと考えることと、無関係ではないのです。自分の人生は替えがきかないと知っているのに、他人は取り換え可能だと思うなら、それは命の土台が、神様との愛の関係が土台として据わってないからだと、愛の律法は教えるのです。逆に言えば、神様との愛の関係が中心に据えられて土台が確かになると、その上に建てる隣人との生活も言わば安定してくる。第一に求めるもの、一番に優先されるのは、神様との愛の関係である。それが基礎だとイエス様はおっしゃいました。

何と、世界の常識と違うことか。私たちがつい陥りやすい世の生き方の優先順位とは、違うことを、改めて思います。ですので、冒頭で申しましたように、もし、自分がこの愛の土台を一番にしていなかったら、色んな言い訳をして逃げたくなるのです。ルカでは、私の隣人とは誰かと問うた、別の律法学者とのやり取りが紹介されますし、心を尽くすと言われても、よう尽くさんという言い訳や、子供のように、だって他の皆だってやりやせんろうという言い訳もありそうです。

皆そうやきという、あるいは、できない自分を慰める言い訳は、案外私たちの心の中で力を振るっていると思います。日本では特に、言わば私たちの意識をすり抜けてくる圧力を持ってないでしょうか。出る杭は打たれるから黙っておこうとか。空気を読めないと陰で言われるのではとか。そういう場面で、協調性という言葉が印籠のように出たりする。流行り言葉のワンチーム同様、大切なことでもありますが、使い方次第で、人を黙らせる悪用もできるのです。皆が神様に罪を犯している世界で、協調性を問うことは、どんな意味を持つのか。むしろそこで、一番大切に意識しなければならないことは、皆との協調性ではなく、唯一の主なる神様との協調性ではないのか。一番大切な順番を間違えて、皆と同じ方向を見ているから、間違った方向に歩んでしまうのではないか。同じ間違った考え方、間違った態度になってしまって、皆ではなくて、隣にいる一人一人を、掛け替えのない隣人として愛することをできなくさせてしまっているのではないか。一体どこで、間違ってしまうのか。その名を愛と呼ばれる唯一の主である神様との協調性を、一番にしないところから。そこから全ての間違いは、出発するのです。

協調の調は調和の調ですから、ハーモニーとも言えます。主なる神様との調和、ハーモニー。それを聖書は、シャローム、平和と呼びます。聖書は、主の平和がありますようにと祈りますが、それは単に問題ごとが起こりませんようにという、その人の話ではなくて、祈る相手が神様との調和に歩めますようにという願いでもあるのです。一番が一番にならない罪の現実の中で、それでも神様が、あなたを神様との調和に歩めるよう愛し導き助け備えを与えて下さいますようにと祈るのです。何も起こりませんようにではなく、私たちが神様と愛の御心に調和して共に歩めるよう、愛の奇跡を起こして下さいと祈るのです。そこで私たちが心を尽くし、思いを尽くして、考えるように。何故、主は私たちに、愛に生きよと求められるのか。私たちが、人に対して、もっと私の気持ちを考えてほしいと思うように、私たちが主の愛のお気持ちに沿いたいと第一に考えて歩めるように。一番を一番として、その上で、これを基礎にして、隣人を自分のように愛せますようにと、神の国とその義を先ず求める。主との調和を求める。それが愛するということでしょう。

何をするにせよ、思うにせよ、計画するにせよ、愛の順番を間違えると、結局は自分が出発点、中心基地になってしって、愛することさえ、自分が愛したいから愛する。愛したくなければ愛さない。それは自分を愛しているだけで、それが宗教の形をとると、いわゆる形式主義になるのです。先の律法学者が、イエス様の見事に御言葉と調和のとれた愛の律法を聴いて、その美しさに賛同してホセア書の御言葉を引用したように、焼き尽くす捧げものも、どんないけにえも、そこで主なる神様への愛が第一に捧げられなければ、形だけの宗教、自分のためにやる宗教になってしまう。この律法学者は、それではいかんと思っていたのです。それは形だけで、美しくないと思っていたのでしょう。

だからイエス様が、第一の律法は愛の律法だと答えられた時、美しい答えだと思ってイエス様を見たのです。イエス様の言葉は、形式主義のような、形だけで、美しくない、綺麗事だとは思わんかったのです。

そして32節で続いてこう言った。「神は唯一である。他に神はいないとおっしゃったのは、本当です」。直訳すると「あなたは真理に基づいてそうおっしゃいました」。自分に基づいて自分の思いを土台にして言ったのではない。だって他の皆もと皆に基づいて言ったのでもない。真理である聖書がそう言っているから。神の言葉が、そう私たちに語りかけているから。だから私たちは、その愛を具体的に私たちに求められる唯一の神様との愛の関係を、一番にする。そして神様を愛するとは、神様が愛される隣人を愛することだ。神への愛が綺麗ごとにならないように、口だけにならないように、礼拝が形だけにならないように、愛に生きよと求められるイエス様の御言葉を聴いて、唯一の神様の真理を聴いて、美しいと思った。その信仰の態度、姿勢もまた、美しいと言えるのではないかと思います。

イエス様は、その人が適切な、これも訳し直すと、思慮ある答えをしたのを見られました。単に、はい正解というのではなく、その心の姿勢をも見られて、「あなたは神の国、つまり神様のご支配から遠くない」と言われたのです。それは、私たちへの招きの言葉でもあるでしょう。あなたも、この人と共に、わたしを見なさいと。

誰だってあなたは神の国から遠い、と言ってもらいたい人はおらんと思います。なのに、神様の愛のご支配から、遠い生き方をしてしまう。愛せない、愛さない、美しくない生き方をしてしまう。でもだからこそイエス様は、この愛の律法を携えて十字架に向かって行かれるのです。皆そうじゃないかと言い訳のできない汚れを背負って、それはもういいと、後ろに投げ捨ててくださるのです。それはもう見ないから、あなたはわたしを見て、わたしについてきなさいと招いて下さる。その道の先に隣人がいる。敵にさえ思える人がいる。それでも、ひるまずイエス様は、その人の前に行かれて、この人の罪もわたしが背負った。あなたはわたしについて、この人を愛しなさいと求められる。私たちが愛するのは、この神様の愛を信じるからです。自分は愛さないのに、愛を求める暴君ではなく、むしろ私たちが愛さなくても愛をやめない愚かなほどに愛である神様であることを信じるから、ひるんでも、何度逃げても愛するのです。そこに主の御手が働いて、愛の奇跡が起きることを信じて。そこにキリストはおられます。そして主の愛のご支配がなるのです。