マルコによる福音書12章35-37節、詩編110篇1節「そして主は命を捨てて」

20/1/19主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章35-37節、詩編110篇1節

「そして主は命を捨てて」

イエス様は私たちに、どのようにご自分を信じてほしいのでしょう。例えば大正時代のキリスト者の詩人、八木重吉が、ある詩の中で、自分の娘に向かって、お父さんの命が必要なら、お父さんはいつでも桃子のために命をあげると詠っています。結核を患っており、そんなに長くは生きられないことも知っておったかもしれませんが、その命であっても命は命です。その命をお父さんはあげると言う。その父の言葉を、どのように相手が信じるのかは、無論、自分が願うようには信じてくれないかもしれません。私たちも、そうした悲しみ、相手から信じてもらうことの難しさ、でもそのことを求めずにはおられない、信じてもらいたいと願う気持ちを、誰もが知っているのではないかと思います。

相手を信じる、というのは、もちろん、信頼するということが一番に来ます。ああ、きっとそうやって本人は思っているんでしょう。それは信じますよ、熱い人だから、本気でそうやって思っているんでしょう、でも実際にはできないと思うと言うなら、信頼はしてないのです。

人々は、どのようにイエス様を信じておったのか。私たちは、どのようにイエス様を信じているのか。そして、イエス様ご自身は、私たちにどのように信じてほしいと願っておられるのか。それが見えてくるのが今朝の御言葉なのです。

ここでイエス様は、ともすると、聖書の解釈の仕方で、あ、ほんまやと思って、さすがイエス様、やっぱりこの方はメシアやわと、感心するような話をされているようにも思われます。ちなみにメシアと訳された言葉は、キリストという言葉で、意味は同じ、神様から選ばれた救い主という意味です。だから、要するに、この方こそ選ばれた救い主やわと群衆は喜んで、その御言葉に耳を傾けておったのかもしれません。

けれど、その群衆が、この時が受難週の火曜日だとすると、三日後の金曜日には、こんな男は取り除け、十字架につけてしまえと叫び出すのです。救い主なんかじゃなかったと思ったのです。嘘つきだ、騙されていたと憤慨するのです。この時はこんなにも喜んでイエス様の話を聴いていたのに。でも、そういうものかもしれません。人間は、自分が望む喜ばしいことを言う人のことを、喜んで聴く生き物なのでしょう。あるいは、自分が思ってもみなかった、パッと目が開かれるようなことを言われたら、おお!と思って、喜んで話を聴いてしまう。以前、電気屋で石油ファンヒーター買いに行ったら店員が、これがお勧めです、ファンヒーターはバーナーです!と、目を輝かせて言った。おお、なるほど!バーナーか!と喜んで買った後で、それ、店員じゃなくて、メーカーの販売員じゃない?と言われ、え?と反省したことがあります。

この御言葉も、そのように読んでしまう恐れがあるかもしれません。「ダビデの子」という言い方は、当時のユダヤ人たちが信じていた約束の救い主、メシア、キリストは、ダビデの子、つまりダビデの子孫から生まれると聖書から教えられて信じていた、言わば救い主の別名です。もう当たり前の知識でした。だから、イエス様がこれからエルサレムにいよいよ入ろうとするエリコの町で、道に座っていた目の見えない人がイエス様に向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい」と叫び続けた。それは、イエス様に対して、あなたは約束の救い主ですと信仰告白をしているのと同じなのです。あなたは、憐れみ深い救い主だと信じます!と彼は信じた。その憐れみを、他の大勢の群衆が、同じように信じ信頼しておったかはわかりませんが、イエス様がダビデの子として生まれた約束の救い主だとは、彼らも信じておったのでしょう。それは決して間違いではないのです。イエス様はダビデの子なのです。

でもそれだけなら、救い主は、昔のダビデ王がそうだったように、主なる神様から特別な力を受けた、でも只の人間ということになりかねんのです。そして、もし!ここがメシア信仰、キリスト信仰の急所の中の急所ですが、もし!多くの人々が信じておったように、人々の信じておった救いというものが、結局は自分たちが思う惨めな状態から、または災いから、苦しみから、ここから自分を救い出してくれと思う、そこから救うために、何かしらをメシアがしてくれるのであるなら、そのために選ばれたダビデの子であるメシアその人自身には、別の特別な何かがある必要はないのです。ダビデの子ならよいのです。何故なら、神様が昔ダビデを用いてイスラエルを導かれたように、今度はダビデの子を用いて、惨めな世からイスラエルを世から導き出して救うのだと、それがメシア信仰であるならば、イエス様は問われるのです。ダビデとダビデの子は、同じ人間同士、並列であるのに、主なる神様のみが唯一の主であられるのに、なぜ聖書は、ダビデをしてメシアを「わたしの主」と呼ばせているのか。むしろ、その詩編110篇の御言葉で、主なる神様が、ダビデの主である「わたしの主」にお告げになられたことは「わたしの右の座に着きなさい」つまり、主なる神様と同等の位の座で、神の国の支配を、あなたが実行するのだという宣言なのです。つまり、ダビデの子として生まれてくる救い主は、ダビデと並列なのではなくて、主なる神様と並列、神様と同等、言い換えれば、ダビデの子は、人となられた神様という意味で言われる、神の子ではないのかと、イエス様は人々に問いかけておられるのです。

ところが、ん?と思ってしまうのですけど、このイエス様の問いかけの後、御言葉はこう続けるのです。「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」。むしろ、ここはイエス様が、ダビデの子であるメシアは神様である!という答えを求めて、おっしゃっている御言葉ですから、それがわかったら、その神様が目の前におられるのですから、この方は唯一の天地創造の主なる神様なのかと思ったら、打たれるような反応になるのではないかと思うのです。ひれ伏すのではないかと思うのです。いつもは神様を畏れ損ねて、傲慢になって、罪を犯していても、目の前に、自分たちが救い主だと信じている方がおられて、そのイエス様が、救い主は神の子ではないのかと問うておられるのを聴いたら、その通りだと思って、自分はイエス様を救い主だと信じながら、あるいは神の子だと信じながら、何を考えていたのだろうと、その神様を前にして、皆畏れた、という反応がここに記されるのが、おかしな言い方ですけど、聖書らしい結果、締めくくりだと思われるのです。でも群衆は、喜んでイエス様の話を聴いています。そしてこの群衆が、イエス様を十字架につけろと叫ぶのです。要するに、分かってないのです。イエス様の問いかけを、喜んで聴いていたのも、分かってなくて、でも分からなくてもいいだろうと思ったのか。分からなくて当たり前と思ったのか。とにかく、この方が救い主なんだから、話を聴いておればよいと思ったのか。喜んで聴いてはいても、分かってないと、結局、当時の常識でメシアがダビデの子だということは信じて、あるいは知っていても、あるいは、キリスト者が、イエス様は神の子だと聖書が言っているから信じていても、それが人間の常識の範囲、あるいは宗教的常識で、知っていて当たり前の知識で止まっているのなら、イエス様を神の子として信じることが、どうして救いになるのかが、わからんのです。

でも問題は、わからんというだけではありません。それは問題の入口に過ぎません。ただのダビデの子では足りない、神の子によって、私は何から救われなくてはならないから、神様が人となられなければならなかったのかが、分からんかったら、その神の子を信じるということで、一体どういう救いを信じているのが、あやしくなるのです。そして神様に対する求めも、的外れになってしまいます。先に申しました、そこで信じている救いというものが、結局は自分たちが思う惨めな状態から、または災いから、苦しみから、自分をここから救い出してくれと思う、そこから救うために、神様が力を働かせてくれると漠然と信じるという信仰あるいは求めにならないでしょうか。ただ、その神がキリストの神だったという信仰なら、群衆が陥ったように、自分の期待した救いがなかったら、騙されたと思ったり、キリストは救ってくれなかったと思うようになるのです。

もしそうなら、群衆が喜んで聴きはしたけれど、分かって喜んだのではなかった詩編の御言葉が、「わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させる」という救いを約束する時の、敵の姿が見えてないのです。イエス様の敵だと言われている敵の姿が、自分の敵として見えてこないのです。その敵から私たちを救うために、神の子が来て下さったのに、それはいいから、これから救ってほしいということになって、ついにはイエス様に敵対し、神様に敵対するようになった群衆と同じ道をたどりかねなくなるのではないか。

けれど、その群衆のために、イエス様は十字架に向かわれるのです。その群衆を扇動した当時の宗教的指導者たちのために、神様は人となられたのです。そして神の子だけが成し遂げうる、すべての人の罪の償いを、罪なき神の子の命によって、償いきってしまわれるのです。その、罪と死と滅びこそが、私たちの天の父である神様から、私たちを奪い、滅ぼして、神様から永遠に引き離そうとする、敵だからです。

その敵が、私の敵として見えなくて、キリストの敵、神様の敵として見えないから、人は的外れな救いを信じ、求めて、それに同調されない神様に敵対してしまうという罪の話は、喜んで聴けることではないかもしれません。聖書の言葉、イエス様の御言葉、救いの御言葉は、喜んでばかりいられない話でもあるからです。でもそれは必ず、後で良かったと思える喜び、しかも永遠の後悔をこそ失って、イエス様の十字架の愛を永遠に喜べる喜びへと導く、永遠に変わらない道しるべです。それが聖書の御言葉です。今日は喜んでいたけど明日は怒りに変わるような、そんな頼りにならない、信頼できないものではありません。信頼でき、自分の将来と人生と永遠の救いを、そこに委ねて、聖書が約束し、保証し、証しする通りのイエス様を、私は信じて、お従いします、よろしくお願いいたしますと、イエス様を救い主キリストとして信頼し、自分の一切をお委ねできる。それが主の求められる、信じる喜びであるのです。