マルコによる福音書7章1-13節、イザヤ書29章13-16節「宗教臭い仮面を取ろう」

19/6/16三位一体主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書7章1-13節、イザヤ書29章13-16節

「宗教臭い仮面を取ろう」

エルサレムから来ましたファリサイ派と律法学者たち。当時ユダヤ人の指導者グループにおった人々と言っても良いでしょう。エルサレム、言わば本部から直々お出ましになった調査団が、イエス様は救い主なのか、それともペテン師なのかを見極めに来た。以前、同じくエルサレムから来た律法学者たちは、イエス様が悪霊を追い出しているのは悪霊の頭の力でやってるんだと言って、イエス様から、その考え方はおかしいろうと、説得されたことがあります。それを帰って報告したのか。今度はもっと上の人たちが派遣されて来たのかもしれません。では一体何者なのかと、本物か偽物かを見極めるため、じっと観察していた。

絵画や美術品の偽物を贋作と言いますが、贋作を見破るには、偽物を多く見るより、本物に沢山触れることだと言われます。なるほどと思いますけど、これ、美術品だけに当てはまることではないでしょう。

つまり、私たちが今まで本物だと思って触れて来た経験の積み重ね、蓄積が、私たちにもあると思うのです。それを基準に人は、じゃあこれは…う~ん本物やない?という審美眼を身につけていく。

信仰についても同じことが当てはまるなら、じゃあ彼らはどんなのが本物だと思って、いわゆる本物だと思う信仰を身に着けてきたか。それが今朝の御言葉で明らかにされるのです。

これ、私たちにも当てはまるパターンかもしれません。どんな信仰に今まで触れてきたのか。特に、ああこれは信仰深くて霊的だと思われるものに触れてきたか。それが身に着いていくのだと思うのです。そしてその身に着いた、これが正しいと自分では思っている信仰のスタイルを基準にして、これは正しい、あれはおかしくない?と判断する。

例えば聖餐式で配られたパンと杯を、配られた後で一斉に頂くのか、配られたら各自で頂くのか。その式の流れ自体は、別に聖書に示されてませんので、どっちでもかまんのです。ただ司式者から指示があったら丁寧だとは思います。が、よく起こりやすい問題は、そこで自分が慣れ親しんだやり方ではないのを見た時に、何でそんなやり方をするのか、間違っていると、裁くことでしょう。

ファリサイ派の人々も、自分の慣れ親しんだ正しさを基準に、弟子たちを観察して、あ!という感じで、弟子たちがボロを出したのを見た。というか彼らには、そう見えただけですが、彼らからすると、食事の前に手を洗わん、あらどういうことな!と。

それは衛生上バイ菌がということではなく、いわゆる宗教的な汚れに対する反応です。もう少し丁寧に言えば、旧約聖書が教える汚れた動物とかに触ったら、宗教的に汚れる。そして、ひょっと知らぬ間に触っているかもしれんから、手を洗わんで食事する者は汚れを真剣に受けとめてないとファリサイ派の人々は考えた。で、私は自分をいつも宗教的に清く保っていますと、自分の宗教的潔白を現わすために、宗教的に身を清める儀式として食前に手を洗っておった、だけでなく、色んなものを宗教的に洗っておった。ただし!と、マルコは、そこを丁寧に説明してこう言うのです。「昔の人の言い伝えを固く守って」そうしたんだと。

つまり宗教的な手洗いに代表される様々な、宗教的に正しいと思われていることは、神様から出てはいない。人間が勝手に付け加えたことで神様が御言葉によって私たちに求めておられることではないと注意するのです。言い換えれば、ここでは弟子たちがボロを出したのではなく、ファリサイ派の人たちのボロが出たのだと言うのです

そういうの、私たちもあるんじゃないでしょうか。それ間違うちゅうで、と指摘したら、逆に、自分が間違えていたことが示されること。私あります。神学校時代、友人が、嘘を吹聴(フイチョウ)すると言ったのを聴いて、それ、スイチョウやろ?とドヤ顔で言ったら、私のほうが間違っていて、顔から火が出るぐらい恥ずかしい思いをしました。いやだって吹奏楽部って言うやか、スイやろと、推論でものを言ったがばっかりに、しかもドヤ顔で言ったがばっかりに、そんな恥をかく。やはり人間、謙遜じゃないといかんと思わされました。痛い目にあって、わかるもんです。自分は間違いの多い人間だと。

問題は、そういう間違いに、気付かされた時、どうするかでしょう。自分の中に痛い部分がある。言わばミニファリサイ派が心の中に住んでいて、俺は正しい、私は正しいと、痛いドヤ顔をしているとこがある。それを痛みによって気付かされたら、幸いなことです。

自分の中にファリサイ派の顔があるという自覚を、また神様に対する健全な畏れと謙遜を、身につけるためには、必要な痛みだと思います。そうやってボロを出すと言うか、自分のファリサイ派が顔を出す度に、ごめんなさいと悔い改めて、変えられていけば良いと思うのです。

自分の中のファリサイ派とは、ドヤ顔の、つまり自分は正しいという態度とも言えますが、正しさを求めること自体は大切なことです。「義に飢え渇く者は幸いだ」というイエス様の御言葉もあるのです。

問題は、その正しさが神様に由来していて、神様から、そうだ、その正しさを求めるあなたは正しいと喜ばれる、神様との関係の正しさか。それとも人の言い伝え、人に由来する正しさ、人から正しいと思われることを大事にして、神様との正しさを蔑にしてないか。人の言い伝えによって、神の言葉を無にするとは、そういうことでしょう。

ただ、おそらくファリサイ派の人々にそう言ったら、いやいや自分らは神の言葉を重んじているから、こういう正しさを細かく求めてやねゃと言うんじゃないかと思います。

でも、です。それに対してイエス様が持ち出されるのは、心の距離の問題なのです。「その心は、わたしから遠く離れている」と。

その心、あるいはその人の求めや関心が、神様から遠く離れていると言えばわかりやすいでしょうか。特に、その人の求めている正しさが、神様から離れている。神様がその心をご覧になったら、え、どこ向いて何を求めゆうが?あなたの心はどこにあるが?わたしは?と思われる。

心の問題は、よく個人の問題だと思われているかもしれません。特に宗教は、心の豊かさを得るためのものだとかって考えられているのかもしれませんけど、聖書はそうは言わんのです。神様は、私たちの心が、神様から遠く離れていることを問題なしとは、されんのです。心は個人の問題じゃない、関係の問題、距離の問題だろうとおっしゃるのです。

それが私たちにキリストを与えて下さった神様、聖霊様を与えて下さった神様、神我らと共にいます、わたしはいつもあなたがたと共にいると約束してくださる神様なのです。

だから神様との関係の正しさを、まず、神様に聴いて求めるのです。その言葉を大事にする。これ、人間関係でも同じでしょう。相手の言葉をないがしろにして、話を聴かんのに、あなたは大切だと言われても、どこが?と思う。違うでしょうか。

だから、もし、そうやってまず神様の御言葉を一番にしてないのに、それより別の言葉に従っているのに、自分は正しい、だってこれこれを私はやっているからと、心が離れていたら、それをイエス様は「偽善者」と言われるのです。

この言葉は、当時、舞台で大きな仮面を着けて演じる役者を意味する言葉で、この場合、大きな、ドヤ、この正しさって顔の仮面を着けている。でもその大きな仮面の下には、本当は正しくない顔がある。

その仮面、神様はお嫌いなのです。私たちだってそうでしょう。愛する人が仮面のような顔をしていたら、どうしてそんな顔を私にするが?って思わんでしょうか。嫌ですよ。すごい距離を感じる。どうしたら良いのかと思う。私たち自身そういう仮面を着けることがあるのにです。ならば神様は尚のこと、その仮面は正しくも美しくもないと言われる。

先に礼拝の中で交読しました詩編51篇は、あの続きにこう言われます。「もし生け贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨に適うのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求める生け贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。

今朝のイエス様の言葉で言えば、コルバンが神様に喜ばれるんなら、捧げたら良い。でも神様はコルバンより、いや神様が心から求めておられる本当のコルバンは、あなたの打ち砕かれた心だと言われるのです。その神様を一番にして、その神様の前に仮面を取って、ごめんなさいと御言葉に背く自分の罪を、神様の前で認める心をこそ、神様は見たいと望んでおられます。そうでしょ。ごめんなさいと打ち砕かれた人の顔は美しいですよ。そしてその悔い改めを受け入れてくれて、この私を受け入れてくれて、罪を赦してくれて、私を遠ざけないで共にいてくれて、ありがとうと、和解を、仲直りを喜び、その関係があることを感謝し、安心して笑みがこぼれるその顔は、もっと美しい。

その顔が、天の父が私たちに求めておられる顔、そのためになら御子を与えてもいいんだと、私たちに救い主イエス様を与えて下さった、父が求めてやまない、愛する我が子の顔でしょう。

イエス様が、どうして神様の言葉をないがしろにするのかと悲しまれながら、そこで父と母との関係についての律法を例に挙げられた。他の律法でも、幾らでも例は挙げられたと思うのです。でも父母との関係、家族の関係を例に挙げられた上で、これと同じようなことを沢山行っていると言われたのも、私たちを思われる天の父のお気持ちを思われたんじゃないか、天の父のお気持ちを考えて欲しいという思いが、あったのではないかと思うのです。親が子に見たい顔がある。家族に見たい顔がある。神様が、私たちに見たい顔がある。

だから、と言って、イエス様が主の祈りを、こう教えて下さったことを思い起こします。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」その御心はなります。十字架の赦しを胸に顔を上げ、主の名によって父に近づく、ここに御心はなるのです。