マルコによる福音書6章45-56節、エゼキエル書36章25-32節「ハードなハートの人も」

19/6/2復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書6章45-56節、エゼキエル書36章25-32節

「ハードなハートの人も」

私たちの生活においても、逆風が吹くことがあります。思った方向に進めない。この時の弟子たちも、ベトサイダに行きなさいとイエス様から見送られたのに、逆風に流されてゲネサレトという土地に着いてしまいます。思った通りにいかんのです。

そんな時どうするか。それを今朝の御言葉は教えます。祈るのです。イエス様が祈られたように。

え、イエス様もここで祈る必要があったが?という場面ですが、聖書はたびたびイエス様が祈る場面を描きます。無論、私たちのために祈られもするのですけど、イエス様は、私たちと同じ人となられた神様ですから、誘惑も受けられたのです。ただ、それでも罪を犯されなかったのは、結果として私たちと違いますけど、それ以外は完全に私たちと同じ人となられた。それは私たちの完全な身代わりとして、完全に私たちの罪を償うためです。でないと私たちの代表責任者、私たちの主になれませんから。完全に同じ。

だから誘惑にさらされることも、同じ。うまくいかないことも、もちろんある。どうして、私のことをわかってくれんのかと、人のことより自分のことだけ考えて自己中心になる誘惑も、もちろんあった。この時も、その前も、人々は、イエス様が自分たちの重荷を背負い、苦しみを癒して下さる救い主だと思ってやってきて、それは間違いないのです。そして皆いやされて、また上の段の群衆など、お腹も満たしてもらう。でもそこでイエス様のことを、自分たちが求める通りにではなく、神様が求められる通りに、イエス様、あなたが必要ですと信じたか。自分の都合で信じるのでなく、むしろそういう自分をこそ悔い改めて、福音を信じた人が、おったか。そのために人となられたイエス様から、ああ、あなたはわたしのことを理解してくれて、本当に嬉しいと、イエス様が安心するような愛を、主にお捧げした人が。御言葉は告げます。弟子たちも、イエス様がどういう方か理解してなかった。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」と。

私たちもないでしょうか。一生懸命、誰かに尽くして、でもその人がどうしてもわかってくれん、何も変わらない、私がしたがは何やったがと、ドッと疲れたり、腹が立ったりする。

そんな時、祈るのです。イエス様が祈られたように。誰一人わかってくれんでも、って言うか私たち、あなたに!わかってほしいと思うことが多いのでしょうけど、イエス様だってそうですよ。私たち一人一人に向き合われて、あなたにわかってほしいと、心と情熱と命さえ注がれたイエス様が、なのに報われない、御心通りにならない誘惑にさらされ、渇きを訴えて、天の父にかきつくようにして祈られた。あなただけは、わたしのことをわかって下さいますと。夕方過ぎから明け方まで、もう何時間も。天の父のもとでの安息と癒しを得て、愛の補給、力の補給をされてから、よし、と、心の鈍い弟子たちのもとに行かれる。

心と態度が人に向かうよりも、神様に向かっていたら、よし大丈夫と思える。それは私たちも体験してきたことじゃないかと思います。心が軽くなる。体さえ軽く感じるほど。この時のイエス様なんて、水に浮きさえするんですから、浮っき浮き(笑)で、逆風に向かって行かれるのです。逆風ですよ。イエス様に対しても、ビュービュー水しぶき、風がぶち当たって来るのを、でも弟子たちのために行かれるのです。それはモーセたちが、エジプトを脱出する時に体験したことと同じです。海が割れる時、ものすごい逆風が吹いたのです。神様が、海の真ん中に救いの道を開かれるために吹かされる逆風があるのです。その逆風の中を、イエス様が、愛する者たちのために来て下さって、そこに神様の救いの道が開かれるのです。

その逆風を、私たちは試練と考えることも少なくないでしょう。試みとも言います。ちょうど中学高校では中間試験が終わったとこですが、試みられ、試されたと思います。本当に理解して身についているかが。勉強した?と親に言われて、やった、わかっちゅうと言っていた自分が本当に理解していたか、試験でわかる。

試練も同じ。神様がわかっちゅうか、自分がわかっちゅうか、隣人と共にどう生きるのかを、心で理解しているかが、試練の時、逆風の時にわかるのです。私にはイエス様が必要だと、わかる。だからイエス様が来て下さったのだと、わかる。だから主は、御言葉を与えて下さって、御心を教えて下さっているから、その御心を求めれば良いのだと。もし色々なことが自分の思い通りにいかなくても、イエス様が導いて下さるから大丈夫だと、主を信じて、お従いする恵みが、わかるのです。

ただ、そうは言っても、心が鈍くなることがある。イエス様が示してくださったように、天の父のもとで、心のメンテナンス、信仰の回復と愛の補給をすることを怠ると、まるで補給なしでも自分の力でやれるかのように、心が鈍くなる。あるいは頑なになっていく。父の恵みのもとで身を休めないと。もとの意味は石になるという言葉です。心の石化が進むとどうなるか。うんと具体的に言うと、人に合わせることができんなってくる。神様のお心に合わせることもそうですけど、わかりやすいのは、人に合わせることができんなる状態でしょう。無論、何でも人に合わせれば良いということではありません。考えるのが面倒で、何でも世間に迎合するのは、むしろ面倒を嫌う自己保身の頑なさが現れているのかもしれません。けれど、人に迎合するのじゃなくて、この人は何でこんなことするのかと思っても、それを理解するために、柔軟に相手の気持ちを考え、状況を察して、まず相手を受けとめようとすることから始めるなら、そこに共に生きる道が開けます。神様が人となられたように。まず受け入れようと、私たち本当に一つとなられたように。

その心の柔軟さを、聖書は柔和とも呼びます。イエス様が、この後の聖餐の招きの言葉に続いて「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と招いて下さった。そのイエス様の柔和は、私のためだとわかるところで、人はキリストの柔和によって心の頑なさが溶かされて自由にされていくのです。

自分を捨ててでも、この人と神様の愛のもとで共に生きたい、と願う自由は、常に神様から始まります。私たちがまだ頑なであった時から、神様がそれを求めて下さったから始まったのです。十字架で死ぬために神様が人となるほどの柔和な愛で、信じられない愛で、もう既に神様が愛して下さっている。その愛のもとに、イエス様が父のもとに身を寄せて祈られたように、天にまします我らの父よと、イエス様の名によって身を寄せて祈る時、道は開かれるのです。

逆風の時も、いや逆風の中でこそ、どうか忘れないでください。神様が、まず始めて下さったことを。もう愛は始まっていることを。救いは始まっているのです。私たちが求める前から、弟子たちが叫ぶ前から、キリストはこの逆風の只中を、もう来て下さっていて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、御声を聴かせてくださっています。

その恵みのもとに身を置いて、身を委ねて、信じてお従いすれば良いのです。逆風の時も、順風の時も、主は常に私たちの救い主として共におられます。