マルコによる福音書6章6b-13節、イザヤ書52章7-10節「プチキリストの気持ち」

9/5/5復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書6章6b-13節、イザヤ書52章7-10節

「プチキリストの気持ち」

イエス様から遣わされて行った弟子たちは、ほぼ何も持たないで遣わされて行きました。なのに、帯の中にお金さえ持つなと言われたのに、伝道ができました。しかも多くの働きができたと言われます。

これ私、伝道者として、この高知東教会に遣わされて来ました時に、貯金ゼロで来ましたから、よくわかるのです。今も相変らずありませんけど、伝道することができているのは何故なのか。よく知っています。どうして、伝道ができるのか。どうして弟子たちは、伝道できたのか。イエス様ご自身おっしゃっているのです。その働きを、支える人たちがおられるからです。

イエス様のおっしゃり方からすると、そのことは、まるで当たり前のように言われるのです。だから何にも持って行くなと。もう前提なのです。大丈夫、神様がその人たちによって養われるから、というのが。

それは伝道者の立場から言えば、この伝道の働きはイエス様に遣わされて、なされる働きだから、イエス様の名によってなされるのだから、だったら神様が必ず養って下さると、主を信頼することがなかったら、つぶれます。あなたを遣わされた主を信じろ。主はあなたを養われる。何も持たないって、そういうことでしょう。伝道は、そのために必要な一切を、神様が教会に与えて、養うことでなされると、信じることから訓練されなかったら、伝道にはならない。神様に頼らない、神様の力によってなされない伝道では、人は救われないからです。

でも御言葉が描いているのは、単に伝道者の姿だけではありません。聖書はここに、神様が養って下さると信頼する伝道者の姿だけ描いているのではありません。その伝道者がどうして自分で自分でと気負わないで伝道できるか。その理由も含めて、描くのです。何故、自分で気負わなくて済むのか。何故、自分で全部背負わなくていいのか。その働きを一緒に背負う人々がいるからです。その人々をも神様が遣わして与えて下さっているからです。イエス様がこの御言葉で私たちに見せて下さっているのは、神様が私たちを養って伝道させて下さることを信頼する、教会の姿なのです。

遣わされた弟子たち、伝道者たちに先立って、イエス様こそが、悪霊を追い出し、病を癒し、人々に出会って下さっておりました。

誰だって病になり得ます。また、福音書で描かれるイメージで悪霊につかれているのではなくても、自分も周りの人も、この人をどうしたらよいかわからない、どうしてこうなってしまうのか、同じことを何度も何度も繰り返して、一体どうしたらよいのかと、自分自身も周りの人も振り回されて、人間にはもうどうしようもないことがある。

でもそこでイエス様のもとに導かれて、イエス様の救いの御言葉を聴いて、信じて、救われるという、神様の救いの出来事が起こる。そこにイエス様の福音を語る弟子たちが遣わされて来て、無視するってことはないでしょう。むしろ、ここでも神様の救いのお働きがなされますようにと、お働きに仕えたいと思う。そこにもう神様のお働きは起こっているのです。神様から、信徒も遣わされているからです。

「しかし」と、イエス様は、教会が遣わされて、そこにあるということは当たり前のことでないのだということも11節でおっしゃいます。「しかし…。」そのこともまた私たちは襟を正して覚えなければならないと思います。だからこそ、そこにイエス様が伝道者を遣わされるのでもすけど、それは何のためかということも、続く12節でハッキリ言われるのです。それは「悔い改めさせるため」であると。

最後、そのことに集中して説き明かします。

イエス様の福音に耳を傾けることなく、つまり悔い改めることのない所が、もしあったら「彼らへの証として足の裏の埃を払い落としなさい」と命じられます。これは誤解ないように申しますと、悔しまぎれの当てこすりではなくて、当時の敬虔なユダヤ人が異邦人の町に入った時に、そこから出る時に行っておった、一種宗教儀式的な風習のようです。

似たような風習として、食前に手を洗うという一種の宗教的儀式もありました。衛生上の汚れを落とすためではなく、宗教的汚れを落して、私は汚れたままの手でパンを食べてはいませんよと、これも他の人たちに証する、つまり裁判所で私は無実ですと証言する意味があったのかもしれません。

イエス様はそのような意味で、もしイエス様が伝えている救いの到来を拒む所があれば、例えばその会堂を出る時に「証しとして」、裁判所で証言をするように、足の裏の埃を払い落しなさいと言われました。証言としてですから、有罪の証言か無罪の証言をする。この場合は、有罪の証言をする。あなたがたは自分たちは神の民だと思っているけど、その神様が旧約で約束され、そして約束されていた通りに与えてくださった救い主を拒むとことは、それは天地創造の神様を知らない異邦の民と同じで、神様を信じてないことになるけど、本当にそれでいいのですかと悔い改めを求めているのが、この行為です。だから、上から目線で裁く態度があると、弟子たちは、イエス様が救い主であることを証言するために遣わされているのに、その愛を証言し損ねてしまいます。それだと言わば説教題に付けましたプチキリストとして、小さなキリストとして人々のもとに遣わされている者として、キリストのお気持ちが自分にはわかってないのだということを証言することになってしまうのです。だってキリストは、十字架でその私たちの罪の責任を全部引き受けてくださった、自らが裁かれることで私たちを裁きから救いに来てくださった神様であるからです。

この行為の言わば現代版にあたることがあるとしたら、これから行われます聖餐式の最初の呼びかけが近いと思います。『「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。」また「主のからだをわきまえないままで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く」と勧められています。かえりみて今、おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません。』

聖餐に「ふさわしくないまま」というのは、どういうことでしょう。何が相応しくないのか。罪深くて、わかっているのに、罪を犯していることでしょうか。でもそれなら、誰が聖餐式に与れるのか、なのです。むしろ聖餐式はキリストの罪の赦しの福音を証する儀式ですから、その赦しに相応しくないとは、つまりこの一点だけで相応しくないのです。キリストがご自分の命を与えてくださったのは、私の救いのためだとは思わない。その一点です。ですから聖餐は「私はキリストが必要です、その償いがなければ罪赦されない者なのです」と悔い改めを新たにしてキリストの恵みに改めて向き直る行為なのです。つまりまるでキリスト抜きで生きも死にもできると思っていた生き方から、私にはキリストが必要ですとキリストに向き直る。その一点での「ふさわしいか」です。聖餐を受けるのに相応しいのは誰か。私には救い主キリストが必要ですと、告白する人です。そのことでキリストは私の救い主ですと皆の前で証言する人です。

私たちは聖餐を受けることによって、そこでキリストに向き直る姿勢によって、お互いに、また世界に、キリストを証しているのです。

そのことを覚え、キリストの罪の赦しを皆で証する聖餐式に臨みます。