マルコによる福音書6章1-6節、詩編69篇8-13節「アウェイなホームでも」

19/4/28復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書6章1-6節、詩編69篇8-13節

「アウェイなホームでも」

イエス様がナザレを出て、弟子たちを作り、あちこちの町や村に宣教をなさった。つまり、聖書が預言していた約束の救い主が来たことを、その教えと奇跡によって人々に証言され始めてから、この頃まだ一年も経ってなかったと思います。

一年前言うたら、ごく最近ですよ。今日の礼拝後の総会で一年を振り返り、神様の恵みを数えますけど、例えば去年の4月1日に岩河姉妹がイースター礼拝で洗礼を受けられました。また同じ4月に岡林さんが天に召されました。やっと1年と思うか。あるいは、え?もう1年?早いねえと思うか。ナザレの人々もそうだったのでしょうか。え?この前、なんか最近見んねえと思うた、あのイエスが、説教をしゆうどころか、言葉を失ってしまうような説教をして、何が起こりゆうが?という感じだったのでしょう。

だってイエス様、この前まで、ナザレの大工やったんです。母マリアの夫が大工でしたので、そのもとで一緒に大工仕事を倣って、ヨセフが早くして亡くなった後、家の仕事を継いで、家族を支えておったのかもしれません。兄弟姉妹もようけおったことが今日の御言葉でも言われていますし、長男としての務めを果たしておられたのでしょう。

ですから、同じ地域に住んでおった人々と毎日顔も合わせておれば、イエス様が建てた家や作られた家具で暮らしておった人々もおられて、皆、イエス様は大工だと思っていた。と言うか、大工だった。

それがある時から、ありゃ最近マリアさんくのイエスを見かけんが、どういたろうねえと。いや、何か神様の仕事をするとか言うて家を出て行って旅をしゆうらしいで。という話だったのが、しばらくしますと、ねえ聞いた?マリアさんちのイエスはあちこちで大勢の人々を癒したり悪霊を追い出して、また神様の教えを説いて回りゆうらしいで、という噂へと変わった。そしていよいよ弟子たちと一緒にナザレに来まして、皆の注目の中、礼拝説教をした。どんな話をするかと、ひょっと高飛車に構えておった人もおったかもしれんのですけど、それが!もう言葉を失うような驚きを覚えて、こう言うのです。「この人は、このようなことを、どこから得たのだろう」。

どこから?だと思われるでしょう。それが今朝の御言葉の急所です。

以前にも、同じことがありました。イエス様が悪霊を追い出している力は、あれは悪霊の頭から得た力だ、サタンからだと答えを出した人々がおりました。

今回、故郷ナザレの人々は、どこから得たのかの答えを、ハッキリは言いません。言わんけど、先に、サタンからだと言った人々と共通するところがあるのです。それは、神様からだと信じない点です。神様からではないと。

彼らが驚いたことの一つに、イエス様の説教の中で聞いた「知恵」がありますが、これを名前にした大学が東京にあります。上智大学です。上からの智恵、つまり神様からの智恵だと、ハッキリ信仰の告白をしている大学です。でもナザレの人々は、どこからだろう?と。

神様から、という答えを、いや、考えつかなかったってことはないでしょう。だってイエス様がなさった話は、礼拝での話、神様の話をしているのですから、これは神様から与えられた言葉だ、神様の知恵だと、まったく思いもよらんかったということが、あるんでしょうか。

もし、神様は私たちに語りかけられるということを信じてないなら、ありうると思います。え、神様って何か言うが?って。でも礼拝に来ている、しかも神の民イスラエルの人々に向けての礼拝説教をイエス様はなさったのですから、え、神様が語られるなんて?そんなことはないでしょう。何を聴きに礼拝に来ているのかという話になってしまいます。

なのに、どこから得たのか?つまり、神様を信じているはずの彼らにとって、でもイエス様の知恵は、そんなこた知っちゅうと、自分たちが神様を信じる者として当然知っていて、それによって生きている知恵ではなかったのです。例えば、同じ学校の子が、自分たちの知らん解き方で数学の問題をスラスラ解いたら、え、それは自分たちが知っていて、それによって問題を解いている知恵じゃない。あなた、どこの塾に行きゆうが?と言うようなものです。どこから得たのか。自分たちの知らないところからだと思う。でもそこが急所なのです。

自分たちが、それによって生きてない神様についての知恵を、でも、やっぱりそれは神様からだと認める。それは、自分たちは神様のことを知らないのだと認めることです。少なくとも、いま聴いた神様の知恵に関しては、神様を知らないと。実際それは私たちがいつも体験することです。人間なのですから、知らないことがあっても当然です。むしろ、神様、教えてくださってありがとうございますと、御言葉によって導いて下さる神様を賛美する礼拝体験が、言わば普通の礼拝体験だと思うのです。またそれが聖書の言う、悔い改めるということでもあるのです。礼拝の中で、神様についての御言葉の知恵を聴いて、しかも驚いたのなら、これは神様から授かった知恵だと、神様に感謝すれば良いのです。だって礼拝って、そのために与えられている恵みでしょう。

驚いて、これは神様だって信じて、イエス様のもとに救いを求めに来た人は大勢いました。同じ驚きに打たれて、これは神様からの智恵と力だとイエス様を信じて、大勢の人がイエス様のもとに来たのですから、誰でも、礼拝の中で、御言葉に触れる中で同じ驚きを得たのなら、神様からだと信じたら良い。

もう少しこの「驚き」について丁寧に見ますと、これはもとの言葉の直訳のニュアンスで言えば「打たれて外に出る」とか「自分の外で打たれる」という言葉です。言わば私たち、普段は自分が持っている常識の中で自分を守って、うん、これはこういうこと、と理解して、自分の外の世界と折り合いをつけながら生きています。でも、その自分の常識の中には、収められない出来事に触れる時がある。そしたら自分の常識で自分を守ることができなくて、変な譬えですけど、まるでヤドカリが、自分の宿から飛び出してしまうような出来事に打たれて、わ~と自分を守るものがなくなって慌てている状態。それがこの驚きです。

でもそこで、そうだ、神様は自分の中で勝手に消化できるような存在ではなくて、私の外にいらっしゃるから、だから私を救うことがおできになるんじゃないか、だって神様じゃないか!と、自分の外におられる神様に出会う。それが、聖書が証言する神様との出会いなのです。

出会う、という言葉自体、自分の外に出て、会うのです。自分の内にこもっておったら、出会えんのです。

確かに人は、自分の中ですべて処理したいのでしょう。特に、自分に関わる問題は、です。だから、自分の手には負えないと思う社会問題や他人の問題とかには、手をつけなかったりする。でも、自分の問題は、自分で処理したい。

でも先週の御言葉も、また先々週も、いや、いつも、どの御言葉も、人は、自分では自分の問題を処理できないことを語るのです。特に命の問題、生きるという問題、しかも神様から命を与えられた人として生きる、ならば本来は永遠に生きるべき、本当に生きるという問題を、人は自分では、どうしても処理できんのです。だから逃げたくなる。棚上げにして見ないようにしたりする。でも後からやっぱり追いかけてくる。追いつかれ、どうしようもなくなって、神様って、初めて思うのでしょうか。いや、そんな私たちのもとに、だから神様のほうから来て下さって、神様から、始めて下さるのです。私たちの救いについて、神様から語り始めてくださる。それが救いの教え、福音なのです。

今朝の御言葉も、そうなのです。イエス様のほうから来て下さって、イエス様から、神様から、その救いの業を始められたのです。「イエスは会堂で教え始められた」と訳された言葉の順番は「イエス様は始められた。会堂で、教えることを」という順番です。いつも言っていますが、順番は大事です。いつでも、神様から始まるのです。それを、いや人間だろうと、命だって、人間から始まるんだろう、イエスだってマリアの息子だと、何でも人間から、あるいは自分から始めようと口を挟んで、順番を狂わせるから、おかしくなるんじゃないですか。その狂った命の順番を、神様から!始め直して下さるのです。その私たちがどうやって救われるのかを、神様から始まって救われるんだと、イエス様は、神様の救いについて教えることから、始められた。

そしてナザレの人々は、その知恵に打たれ、自分の常識や自分を守る自分の正しさの外に出たのです。そこで本当は目の前で、神様に出会ってさえおったのです。預言者どころじゃない、聖書の預言が約束していた救い主、人となられた神様に出会っておった、いや、神様が出会って下さっておりました。

その神様、キリストを、信じない者でなく、信じる者になりなさいと主は言って下さいます。今日、イースターの翌週の日曜日は、ヨハネの福音書に記された、トマスにイエス様が出会って下さった日です。他の弟子たちがイースターにイエス様に出会ったのに、自分だけ出会えなかったからと、俺は信じないと頑なになっておりましたトマスのもとに、イエス様から来て下さって、トマス、信じない者でなく、信じる者になりなさいと、優しくおっしゃって下さった礼拝の日です。

その神様が始めて下さった救いのお働きの中に身を置いて、私たちは信じて生きることができるのです。