18/11/4主日朝礼拝説教@高知東教会
マルコによる福音書1章1-8節、イザヤ書40章3-5節
「神様は道を開かれる」
今日から、このマルコによる福音書を通して、神様の御言葉を聴いてまいります。その一番の出だしは、こうです。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」
さあ、始まりますよ。あるいは、ここから始まったんですよ。これがキリストの福音、救いの知らせは、こう始まるのです、と言い直してもよいでしょうか。
イエス様を信じた者たちは、改めて自分の救いがどう始まったのか、自分から始まったのか、神様から始まったのか、その始まりを、改めて思い返してもよいのです。まだイエス様を信じてはないけれど、という方も、じゃあ、それが始まる時にはどう始まるのかと、始まるってどういう始まりなのかと、期待しながら聴いてもよいと思います。
私はこの「初め」という言葉、あるいは「始まり」という言葉を聴いて、小学生の時だったでしょうか、目の前に紙芝居がジャ~ンと出てきて、何々何とかの始まり始まり~と、今から楽しそうな物語が始まる、という時のワクワク感を思い出しました。あるいは、大衆劇というのでしょうか、ちょっと昭和レトロな感じの劇場で、派手な格好した司会者が、皆さんお待たせしました、それでは始まります、何とかかんとかの始まり始まり~と、劇が始まる。紙芝居でも、劇でも、見ている者たちは、その話が続いている間、その物語の中に引き込まれて、一緒に笑ったり泣いたりする。また毎週放送しているテレビアニメやドラマでも、お決まりの始まり方があって、最近は歌からじゃなく、いきなり始まってから歌になる始まり方も多い。でも、どっちだろうと、始まってしまったら、見ている側にもスイッチが入って、今日はどんな話だろうかと引き込まれていく。始まるっていうのは、その中に自分が入っていくのです。その物語が確かに始まるのです。
ただ劇や紙芝居、ドラマやアニメは、どこかで終わってしまいます。ああ面白かったって、言わば現実に戻っていく。
では、キリストの福音、キリストが私たちを救って下さる物語はどうでしょう。もう始まったのです。でも読み終わったら、終わるのでしょうか。そうでしょうか。礼拝が終わったら、ああ面白かったとか、いい話だったとか、今日のは今一だったとか、そういう世の中のことと同じように、始まっても、結局は終わって、現実に戻らなければならない、結局この世の中での浮世離れした話の中に私たちはいるのでしょうか。
私たちは今どこにいるのでしょう。既に神の子として来て下さって、もう始まっている、キリストの救いの物語の中に、いるのでしょうか。それとも外でしょうか。本当は何も始まってないのでしょうか。
神様は私たちに宣言なさるのです。もう始まったと。あなたを救うために人となった、神の子イエス・キリストの福音の始まり始まりと。
その始まりは、ちょっと難しい言い方かもしれませんが、歴史の時間の流れにおいても、またそれから二千年経った今この福音に向き合っている私たちの命の流れにおいても、この福音の始まりは、同じ場所から始まります。キリストによる救いの始まり。どこから始まるのか。
荒れ野からです。3節「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
キリストの救いの物語は、歴史においても、私たち一人一人の救いにおいても、荒れ野から始まるのです。
荒れ野。どんな風景を思い描かれるでしょう。荒涼と、荒れ果てた、命がそこでは生きていくことが困難な、いや、そこに命はないだろう、そこは本当に生きる場所じゃないと思う、そこが荒れ野です。
私たちの救いにおいて、キリストが登場なさる場所。そこは野の花が咲き乱れているような、この世で生きる幸せを感じる場所では、ないのです。この世の幸せを、つまり神様は脇に置いていても生きていけて、いや、それが現実の幸せに生きる道だろうと考えて色々とやっている、そんな世の幸せを得たいなら、荒れ野は全くお門違いな所です。敢えて荒れ野に行く人はおらんと思うのです。また神様だって、最初に世界をお造りになられた時に、荒れ野を造られたわけではない。神様がお造りになる世界は、神様と人とが共に生きる楽園です。こう言ってもいい。罪が荒れ野を造るのです。そして幸せには生きていけない世界、神様の愛に従わない世界に熱風が吹いて命を枯らしてしまう。そんな世界を、神様は望まれない。また誰だって望みはしないはずなのに、私たちは、余りにも罪に慣れ過ぎたからでしょうか、人は誰もが自分の内に荒れ野を抱えながら生きている。そしてついには死の熱風が吹いて来ても、皆が通る道だから仕方ない、それが、人の道だと思うのでしょうか。
その荒れ野から、しかし神様は、私たちを救い出すことを望まれて、その荒れ野の中に、罪と死に慣れ過ぎた私たち、人の道とは違う道を、永遠の命に至る道を、荒れ野の真っ只中に通す!と決められたのです。その道が、イエス・キリストの救いの道です。罪を赦して人を救われる神様の救いの道。この道筋を、曲げてはならない。
罪をどうするか。それは赦されるか、赦されぬまま放置して荒れ野を造るか、どちらかの道しかない。人に対する罪を考えてもわかると思います。罪が赦されることをあきらめるところに、荒れ野ができてはないでしょうか。自分の内に荒れ野を抱えるだけでなく、人との人間関係に荒れ野を抱えて、死の風がその関係を殺していく。神様との関係においてもです。神様から、罪を赦していただいて共に生きるのか、神様と共に生きるなどどうでもよいと、死の問題と一緒に放置するのか。この罪の問題を叫ぶ声、荒れ野の中でないと聴けない声は確かにあるのです。生きるも死ぬも自分だけの問題だろうと、荒れ野を避けるところでは、その荒れ野で叫ぶ声に、耳を閉ざしてしまうということがある。
それでも、です。その声は叫ぶのです。荒れ野がそこにあるように、そこに荒れ野で叫ぶ声はある。その声は、罪を神様に告白して、赦してもらおう、赦されるから、あなたの罪は赦されて、荒れ野には永遠の命に至る道が通る、神様が道を造られるからだ!と、罪の赦しを得させるための悔い改めを荒れ野で叫んでいるのです。その声は歴史では洗礼者ヨハネに託された務めでしたが、今でも、その声は、私たちの荒れ野で叫んで、悔い改めを求めています。
ただ、悔い改めるというのは、ごめんなさいと思う気持ちの問題ではありません。特に今朝の御言葉が告げる悔改めは、イエス・キリストの罪の赦しの道に向かって、その道筋を真っ直ぐにするということです。ごめんなさいと顔を下げるのでなく、むしろ赦して下さる神様に向けて顔を上げるのです。それまで、これは自分の問題だと思っていた事を、あるいは問題だとすら思ってなかった罪を、神様、あなたはこれを問題とされます。そのあなたの、わたしを真剣に求められておられる救いの愛、正義の愛を、私は信じます。私の神様、どうか私の罪を赦して、お救い下さいと、顔の向きだけでなく、この私が生きる向きそのものを、グルっと方向転換する。自分ではなく、あなたが私の生きる道ですと、神様に方向転換することを、聖書は悔い改めると言うからです。
荒れ野で叫ぶ声があるなら、どんなに小さな叫びであっても、そこに道は整えられています。その先にキリストの十字架があるのです。全ての罪が背負われた、神様の救いの道がそこにあります。行きましょう。信じる者として、方向転換した者として、神の子イエス・キリストと共に顔を上げて。その福音は、もう始まっているからです。