ガラテヤの信徒への手紙6章16-18節、詩編133篇「主イエスの恵みの家族」

18/10/28主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章16-18節、詩編133篇

「主イエスの恵みの家族」

あなたがたの霊と共にあるように。皆さんは、例えばお手紙を書いて最後に挨拶をなさる時、どういう挨拶をなさるでしょうか。主の恵みをお祈りいたします、とか、主の平安をお祈りいたします、という挨拶をなさることはあるんじゃないかと思いますが、その恵みが、あなたがたの霊と共にありますように、と祝福を祈る。私、今まで、そういう挨拶をしたことはなかったかもと思わされました。

よく聴くのは、食前感謝の祈りで、私たちの霊肉共に養って下さいと祈る。あるいは、この肉の糧を感謝しますと祈る。じゃあ霊の糧って、どういうのをそこではイメージするのか。おそらく御言葉の説教のことをイメージされるのでしょう。説教前の祈りの中で、私たちの霊の糧を豊かにお与えくださいと、よく祈る。その通りなのです。神様が与えてくださった、この肉体も、もちろん大切にしなければなりませんけど、じゃあどれだけ私たちは自分の霊を、また人の霊のことを思い、大切にしているでしょうか。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」と祈る。肉体が恵まれても、霊が恵まれなかったら、つまり、こういうことです。神様との愛の関係が、やせ細った貧弱な関係になってしまう。肉体は健やかで、自分がしたいことを元気にできたとしても、霊が健やかでないと、神様のしたいことが、できない。神様のことが、わからない。神様がどんな風に私のことを思っておられるか、私に何とおっしゃっておられ、何を求めておられるか、それに対して私の霊は、どのように応えればよいのかが、もし、霊が恵まれて健やかでないと、つまり、キリストによって神様と親と子の関係に結ばれて生きている私である、が恵まれていないと、神様の前には、健やかに生きてないのです。神様から、あなたは死にそうになっていると言われる。肉体は健やかで、自分のしたいことができても。内側で密かに病にむしばまれているのに似ているでしょうか。ところがキリストの恵みが霊と共にあると、神様との関係が恵まれ、神様のしたいことが、わかって、したくて、これに生きる。キリストの恵みによって。これが、霊の恵まれた命です。

それが16節で言われておりました「このような原理に生きていく人々」の生き方でもあります。

長くこのガラテヤの信徒への手紙から御言葉を聴いてまいりました。今回がその最後の説き明かしとなります。その手紙の最後にキリストの使徒パウロは、改めてガラテヤの教会に、どうしてもわかってもらって変わってもらわないかんかったことを、ギュッとまとめて、再度、強調した。それが、この原理、あるいは、私たちのキリストの救いを信じる者たちの、いのちの在り方の基準です。原理と訳された言葉はカノンという言葉でして、つまり物差しです。正典と訳されることもあります。教団信仰告白の冒頭で「旧新約聖書は…教会の拠らねばならない唯一つの正典であります。」また「信仰と生活と誤りのない基準であります」と告白しますが、そこで聖書が正典であり、私たちの信仰と生活との基準だと言うのは、教会の一切を神様の前に持ち出して、これは神様の御心に適っているでしょうか、どうなんでしょうかと問う時に、うん、それが御心かどうかは、聖書に全部書いてある。御言葉を自分に当てはめて物差しで測るようにして、自分の生き方や考え方を量ってごらん。そしたら、霊が恵まれて生きるとは、どういう生き方になるのか、わかるからと、神様は聖書を与えて下さった。その聖書のエッセンスを、ギューっと、絞りに絞って、これ以上もう凝縮できんというところまで凝縮したのが、14節「しかし、このわたしには、私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」このエッセンスを自分の生きる基準として生きていくことが、具体的に霊が恵まれる生き方なのです。

テレビをつけると、もうしょっちゅう、肉体の健康を養うサプリのCMをやっています。もう全部にお決まりなのが、ゴマの栄養をギューっと濃縮した、牡蠣のエキスをギューっと、ブルーベリー…もう何でも濃縮して売ってますが(笑)、聖書正典の濃縮は、これ!「私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません。」

当時のガラテヤ教会には、今で言うたら肉を恵むためにはお金出してサプリ飲んで、私はこんなに健康だ、あなたも飲みなさいと、肉を誇りたい人々が、キリストの十字架の恵みを後回しにして、他の基準、原理を、祝福の基準、救いの原理として持ち出して、教会を不健全どころか死に到る病にしようとしていた。だから、使徒パウロは、相当な熱量をもって、この手紙を書いたのです。それを私たちは丁寧に説き明かし、聴いてまいりましたので、しょうみ一年前に聴いた説教は、私でも何を説教したか覚えてないのが実情です。いや、どの教会でも、いつの教会でもそうだと思います。ならばこそ、でしょう。これが基準ですよと、他の詳しいことは忘れても、これだけは身につけて持っておきなさいと十字架のキリストを誇る信仰の基準を、使徒は私たちに手渡すのです。この基準に自らの生きる姿勢を当てはめて、何度も何度でもキリストの憐れみを求めて、十字架に恵まれて、私の罪は赦された、イエス様ありがとうございます!唯あなたの犠牲による完全な救いの恵みによって、私は神様の前に義と認められ、永遠に生きる者とされたのです!と、霊が恵まれて生きられるからです。一切の、私たちがなした何かによってではない。自分の良い行い、自分のいわゆる霊的な行いも、一切です。そういう肉を誇り、自分を誇る生き方考え方は、十字架にはりつけられて、もう、かまん生き方になったのです。終わった肉の基準になったのです。キリストが、私たちを新しく神の子として造り変えて、共に生かしてくださっているからです。ただキリストの恵みによって!

この基準が与えられていることを、この手紙の最後に、またこの手紙の説教の最後に、どうしても強調したいのです。それだけの生命線が、この十字架の恵みだからです。

人は、キリスト者であっても、牧師でも、自分の肉を誇りたい。言い換えれば、人間の力に頼って、自分だけで、できること、いや、自分がしたいこと、こうならなければならないと自分が思うことを、自分の力でやろうとして、あるいは、教会に押しつけようとさえして、イエス様にさえ押し付けようとして、覚えていますか、ペトロがイエス様から何と言われたか。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)私たちは、神様のことでなく、人間のことを思って、イエス様の十字架の恵みの邪魔をさえしようとしてしまう。

皆さんに祈って頂いた教団総会の結果について、少しだけ報告させて頂きます。特に議長選挙、副議長選挙の結果ですが、教団のために長く仕えてこられたベテランの牧師が、こんなおかしなことは今まで見たことがないと驚くほどの、ま、要するに組織的な票の動きがあって、これから二年間の教団活動は、極めて政治的な駆け引きのもと、ギクシャクすることが予想されます。あまりそういうのは言いたくないのですが、敢えて、その上でお願いしたいのです。今日の御言葉の最後の御言葉によって願いたいのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、そして、私たちの教団と共にあるように、アーメンと、共に祈って頂きたい。何故なら、私たちは同じ主イエス・キリストによって救われた兄弟姉妹だからです。一人として別の救われ方をした人はいません。キリストの十字架をのみ誇る、霊の原理によって、人のことではなく、神のことを考えて、神様がそのために与えて下さった、十字架のキリストの御名によってのみ、主よ、憐れみたまえ!と祈る私たちを、神様は必ず憐れみ、キリストの平和をくださるからです。人間には不可能なことも、神様には不可能はない。神のことを考えない人間のために十字架で死ぬことを考えて実行なさる神様に、何が不可能なことがあるでしょうか。人間の思いが渦巻いて、御子を十字架につけて殺しても、その十字架によって世の罪ははりつけにされて、裁かれ終わって、その十字架から霊の道が開かれて、そこに私たちは今歩んでいるのです。私たちの主イエス・キリストの恵みによってです。だから、祈って下さい。教団は変わります。私たちもまた、神のイスラエルとして、主の十字架のもとに置かれているからです。

最後に、使徒パウロは言わば最後の最後で念を押すように「これからは、誰も私を煩わせないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです」と言います。私が言ってきたのは、口先だけで軽い単なる人間の望む恵みや救いとは違うことを、あなたがたは知っているはずだと、改めて思い出させて念を押すのです。

その焼き印という言葉は、スティグマという言葉。家畜や奴隷に押すしるしで、押されたらもう消えない。逆に言えば、そこまで確かに私はイエス様のものとされて、キリストの代わりに、あなたがた、よろしく頼むよと願っているのです。あなたがたにも同じ主の恵みが、消えない恵みがあるのだからと、刻まれた恵みの念を押すのです。

私はこの言葉に、先週、吉永長老たちと尋ねた鈴木先生との会話を思い出しました。坂出のホスピスに移られ、一目で、先生はもう走るべき道のりを走り通されようとしているとわかりました。恵みを語り続けたあの大きな声が、もう出ない。でもずっとあの笑顔。讃美歌一杯歌ってと願われ、歌い終わる毎、声が出ないので、拍手されました。一人一人短く挨拶し、私が先日の四障伝の会が恵まれたことを報告すると、手をぎゅっと握って、任せたよと言われた。先生は足に障害を負っていた。でも神様はそれを障害者伝道の恵みとして祝福され、希望の家の多くの兄弟姉妹が救いの恵みを受けました。私たちも多くの、霊の恵みを受けたのです。体のことだけでない、口だけでもない、神の子として生きる霊の恵みがある。この恵みの力は、決して消えも失われもせんのです。