マルコによる福音書1章9-13節、イザヤ書53章「すべて背負われる祝福」

18/11/11主日朝 幼児祝福礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書1章9-13節、イザヤ書53章

「すべて背負われる祝福」

今日はこの後、幼児祝福で幼子たちがこの前に来て、神様からの祝福を受けます。それは、ご覧になられた方はイメージを重ねられると思いますが、洗礼を受ける方が、この前に来て、洗礼を受けるのと似ています。洗礼の場合は、ここにひざまずいて頂く。幼児たちは、ここに立ったまま、あるいは抱っこされたまま、祝福を受けます。形やその意味に違いはありますが、共通することが一つあります。

それは、幼児祝福も、洗礼も、神様から受ける点です。手を置くのは牧師です。でもこの手を神様が聖めてイエス様の手とされて、祝福が、そして洗礼が授けられるのです。牧師の人柄とか勤続年数とかで祝福が変わったりはしない。いや~野口牧師もアラフィフになって少し重みが増してきた(笑)とかない。神様が変わらないから。それが神様を信じる信仰でしょう。牧師が変わっても別の教会で洗礼や祝福を受けても、同じ。私たちを造られ、救い主を与えられた神様が同じだからです。

その同じ洗礼を、いま共に聴きました聖書の御言葉では、イエス様も受けられた、と言います。何とも驚きです。

だって、え?イエス様って神様やろ?クリスマスに人となられた神様が、何で救い主自身が、救いの洗礼を受けないかんが?どういうこと?っていう洗礼を受けるのです。

でも実は、ここにキリストの救いの奥義がある。それが今日の、幼児祝福の神秘的根拠、奥義でもあるのです。

人となられた神様、罪なき救い主が、罪の赦しの洗礼を受けた。何故か。それはイエス様が、私たち罪ある人間の主として、つまり全ての人の責任を取られる代表者として人となられた神様だからです。

それがクリスマスの理由です。神様がクリスマスに人となられたのは私たちの代表となるためです。

全ての人、全ての時代の、全ての世界の、すべての宗教のと言っても何と言ってもよい。生き方も、あり方も問わない。全ての人の主として神様は人となられた。それがキリストです。そしてキリストは、全ての人の罪を背負う救い主として、私たちもまた受けるべき罪の赦しの洗礼を受けられたのです。私たちの罪が赦されるために十字架で死なれる、私たちの主として、です。

そのイエス様が洗礼を受けて、水から上がると、天の父なる神様から声が聞こえた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

何で言うたのでしょう。だってイエス様、そんなん知っちゅうのに、何でわざわざ言うのか。私たちのためです。私たちの代表者として、主となられたイエス様を通して、私たちもまた、この天の父の祝福にあずかるためです。だって、そのように私たちを受け入れ祝福するために、永遠の三位一体の御子を遣わしたのです。私たちもまた、神様の子供として愛される、喜ばれる命に生きるためにです。

さてしかしそのイエス様に対する、何で?という展開は続きまして、そんな祝福を受けたイエス様が、何で、しかも三位一体の聖霊様に導かれて、サタンの誘惑を受ける荒れ野に連れて行かれるのか。何でか。

またもや、私たちの主、代表として、です。改めて、イエス様はどういう代表となられたのか。私たちと同じ誘惑や、苦しみや災いを受け、最後には私たちの犯した罪の裁きをさえ受けられて、十字架で死を受けられる代表です。でもそのことで、私たちの罪はキリストの身代わりによって償われ、ぜんぶ背負われて、赦され、救われる。

そのための救い主を、わたしはあなたがたに用意する、これが救いの約束、福音だと、実にキリストが人となられる何百年も前に、神様が、約束の預言として与えられたのが先に読みました旧約聖書イザヤ53章です。イエス様の十字架で成就した、この約束を、もう一度、4節からお読みします。「…」(旧約1149頁)

「この人」が、私たちのために、人となられた神様だから、私たちの全てを背負われた神様が、大丈夫、わたしがあなたの主だからと言って導かれるから、その祝福を、信じ受け入れてよいのです。

それは私たちが、教会で受けた祝福を失ってしまったように思える時にもです。私たちが荒れ野でさまようような時にも、サタンの誘惑の手の中に堕ちてしまった時であっても、イエス様が、大丈夫、そのあなたのために、わたしはいる!だってわたしはあなたの主となるために人となったのだから、十字架だって受けたのだから、あなたはこのわたしの祝福を受けて、救いの道を歩むんだ、わたしは主、あなたの神だからと主キリストが言って下さるからです。この祝福の中に、信じて身を置いてよいのです。

私たち、生きていたら誰だって試みや誘惑に会う。誘惑に会わない、負けたことのない人生なんてないでしょう。そんな絵空事の絵に描いた人生の祝福など神様はなさいません。神様は絵空事の神様ではないからです。人生をご存じです。罪をご存じです。その、罪の現実に直面するところで、罪への解決を持っておられる方が共におられるのです。罪を背負って下さった神様が、絵空事ではない苦しみと試練の中でこそ、私たちを背負って立っていて下さる。だから私たちは、この神様の祝福の中に立てるのです。すべて背負われているからです。

さあ共に、この祝福の中に立ちましょう。幼子たちと共に。また祈りの内に。キリストが私たちと共に、ここに立っていて下さるから。父と子と聖霊の、三位一体の神様の祝福がここにあるからです。