ガラテヤの信徒への手紙6章9-10節、詩編126篇「教会って何であるが?」

18/10/7主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章9-10節、詩編126篇

「教会って何であるが?」

たゆまず善を行いましょう。たゆまずっていう日本語の意味、実は私わかりませんでした。絶えずみたいな意味かと思って調べたら、違ってました。じゃあ、たゆむってどういう意味か。ゆるむことだそうです。例えば、弓で矢を飛ばすためには、弓の弦がピン!としてないといかんのに、いざ鎌倉、今だ、矢を放て!という時に、弦がゆるんで、たゆんでいたら、弓を引いてもヒュン!と飛ばないで、ピヨン、ポテ。

どこを狙えばよいか、生き方の照準は合っていても!です。どう生きれば良いのか。どのような善を行って生きるのかは、礼拝で御言葉を聴いて、信じて洗礼を受けた者は、分かってはいるのです。何故、善を行うのか。善を行ったら救われるからか。そうではない。善行を積むから救われるのではなくて、神様の恵みによって、十字架の愛によって、赦しによって救われたから、だから同じように、この愛に生きようと招かれたイエス様にお従いして、人を愛し、恵みと赦しに生きていこうと、善の照準は、合わせたのです。御言葉から知っては、いるのです。

じゃあ、イエス様の愛を皆と分かち合って生きていこう。それが、善だからと、イエス様の愛を分かち合うという照準に心を合わせて、この善を行って生きようと、生き方の狙い目は、わかっていても、その心がたゆみ、ゆるんでおったら、ピヨン、ポテっと、イエス様の愛を分かち合う善にまで、届かない生き方になってしまう。その私たちの弱さを、知らない人は、おらんのじゃないでしょうか。牧師も含めて、キリストから、あなたはたゆまず、気を緩めず、いつも目を覚まして、祈って、わたしの愛に生きているかと問われたら、シュンとなるんじゃないでしょうか。ゲツセマネの園で、一時間でも目を覚まして祈っていられなかったのかとイエス様に言われて、シュンとなった弟子たちのように。

でも、なんです。そこに、たゆまず善を行うという具体的な姿も浮かぶのです。キリストの弟子たちは、強いから愛し合うのじゃない。弱さを知っているから、その弱さを受け止めて下さったイエス様の愛と赦しによって、人は本当の意味で優しくなれると知っているから、イエス様の愛によって、愛することができる。優しくなれる。まずイエス様から優しくされたから。十字架で背負われたから。赦されたから、赦すこともできる。十字架のイエス様のもとで生きる命を分かち合えるのです。

たゆまない、気を緩めないというのは、いつも糸が切れそうなぐらい気を張り詰めて、信仰信仰と生きることではありません。先の弓の譬えでも、弦を張り過ぎると、弓がいかんなります。心が折れそうな緊張感を強いるのはパワハラの人であって、御子の十字架によって私たちの罪を赦される天の父が求められる心のありようではありません。

信仰を自分でやらないかんと思うと疲れます。張り詰めてしまう。善に生きること、愛に生きること、人生を生きることも、自分でやらなと気負うところで、全部自分で背負ってしまうところで、神様の愛も善も分からなくなってしまう。

その私たちのもとに、父は御子を与えて下さったのです。疲れた者、重荷を負う者は誰でも、わたしのもとに来なさいと招かれるイエス様のもとで、私たちは、赦され、救われて生きられる。そして、赦された命の生き方も学ぶのです。

それがたゆまず善を行うという生き方です。言い換えれば、何がユルっとしてなくて、たゆんでないか。このイエス様に赦された者として、イエス様の前に立つ姿勢、またイエス様を与えて下さった天の父の前に立つ姿勢が、ピンとしているのです。

そこがたゆんで、まるで自分で人生も信仰もやっている姿勢になる時に、善が独り善がりの善になって、イエス様の愛と赦しを、隣人と分かち損なってしまうのです。人生の実りも、伝道の実りさえ、自分の力で刈り取るんだ、自分は…という姿勢だと、自分はこんなに頑張っているのに、どうして、と自分の望みが報われない人生に不満を持ちやすい。毎日家族の救いのために祈っているのに、ということもあるでしょう。無論、その悲しみがあるのは当然のことですが、そこで忘れてならないこと、たゆみ、ゆるんではならないことは、その悲しみをイエス様こそが十字架で負われて、私のためだけでなく、家族のためにも、すべての人のために死んで下さったことです。その死によってのみ、父は私たちを赦されるのだと、そこでイエス様の救いを信じることです。

そこに見えるのは、イエス様抜きで、人間の努力や失敗で成り立っている人間の世界ではない。そう思って、たゆんで思い違いをして生きている私たち罪人のため、イエス様を十字架にかけられた憐れみ深い全能の父が生きておられる世界。それが御子が来られたこの世界です。

この全能の父が、イエス様の愛を分かち合う私たちの善を、人々の救いのために用いて下さる。だから私たちは信じてたゆまず善を行えるのです。信じられるから、すぐに刈り取りがなくっても、信じてイエス様の優しさを蒔き続けられるのです。

最初、ここでその成功例をあげようかとも思いました。例えば30年間祈ってイエス様の愛を証して家族が救われたという方等の証をしようと思ったのですが、御言葉が「時が来て、実を刈り取ることになります」と言うのは、神様が用意されているタイミングの時、という意味です。そしてそのタイミングがいつ来るかは、イエス様の到来と同じで、人は知らん場合もあるのです。天の御国で初めてわかることもある。

米国のクリスチャンシンガーが歌ったヒット曲で「ありがとう、主に与えてくれて」という曲があります。私は天国の夢を見た。ある人が私に近づいてきて言った。あなたは私がわからないかもしれません。私は小学生の頃、教会学校であなたからイエス様の話を聴きました。あなたは知らなかったけど、私はその時、イエス様を信じて祈ったのです。ありがとう。あなたの奉仕を主に与えてくれて。それで私は今ここにいるのです。また別の人が近づいてきて言った。あなたは私を知りません。でも覚えていますか。ある礼拝で、特別の献金が呼びかけられました。あなたはその時貧しくて悩んだけど、聖めて御用に用いて下さいと自分を捨てて捧げてくれた。その献金を主は用いられました。それで私は今ここにいるのです。ありがとう。主に与えてくれて。

この歌、ひょっと以前にも紹介したかもしれませんが、何度でも紹介したい。ここには御言葉が約束する救いの真実があるからです。神様が救って下さる!それが十字架の救いだと、たゆまず信じたら良い。

キリストが保証して下さる。わたしは約束通り来たのだから、あなたのもとに刈り取りのタイミングも必ず来る、もう来ているかもしれないと信じてよい。約束だから。信じて待ちなさい。そして信じて蒔きなさい。十字架の愛を分かち合う善を、たゆまず信じて蒔きなさいと。

すべての人に対して、特に信仰の家族に対して、と言われます。これ私は自分の体験からよくわかります。信仰の家族に善をと言うよりは、要するにイエス様の愛をアーメンと信じる主に在る家族として、言わば自然体の家族愛で、互いに仲良くしている姿を見た時、あんな風に私もなりたいと思った。なんか嘘がなくて、本気で神は愛だと信じてるんだろうな、いや、本気でイエス様は神様なんじゃないかと思ったのです。後で知りました。イエス様はヨハネ17章でこう言われたのです。天の父と御子がひとつであるように私たちが神様の内に一つとなれば、世は父が御子を遣わしたことを信じるのだと。これもイエス様の約束です。その約束を信じて主の愛に生きる教会を通して、救いの実りはなるのです。