ガラテヤの信徒への手紙6章11-14節、詩編52篇「自分の行いを誇る心は」

18/10/14主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章11-14節、詩編52篇

「自分の行いを誇る心は」

人を動かす力って、色々あります。動機づけるものと言ってもよいでしょう。例えば、これしたら得するきとか損したくないという、損得や利害の計算もそうでしょう。でも、意外と、経済的あるいは労力の損得計算を超えたところで、人間って動くものです。そんなことをして何になる?と人から思われることを熱心にやったりする。例えば、私たちが休みの日の朝から礼拝を捧げるために動くのも、ある人々から見たら、どんな得があるのだろうと思うかもしれません。その労力に見合うだけの利益か何かがあるのだろうかと。もし、何も得ることがなかったら、何をしに教会堂に行きゆうがやろうと。心に平安が与えられるから行くのだろうかと考えるかもしれません。ありがたいお話に心が清められるから行くと思うのでしょうか。また、そうした動機から、平安が欲しいから、また心を清められたい、何か自分で醜く思う今の自分を清められたいと求めて教会の門を叩く方は少なくないと思います。そしてそれらは、天の父が、私たちに与えたいと願って導いておられるから、求めて来られるのです。それでいいのです。

天の父なる神様が遣わして下さった救い主、人となられた三位一体の御子イエス様は、こうおっしゃいました。求めなさい。そうすれば与えられる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。そして開かれる扉から与えられるのが、今朝の御言葉で言えば、十字架を誇る喜びと自由なのです。

教会の門を叩いて、礼拝の門を叩いて、聖書の御言葉の門を叩いて、一体何が開いて出てくるのかと思ったら、おお!十字架って、こんなに私を救ってくれるがか!と、十字架を誇る生き方が、その人の前に開かれて、生きる動機そのものが変えられていく。何でこういう生き方になるが?何でこういう考え方になるが?何で?って、いちいち私たち考えながら生きてないかも知れませんが、一度立ち止まって考えてみたら良いのです。そら、色んな動機、理由が浮かんでくると思います。うわ、こんな自分中心の動機からかというのも出てくるでしょう。聖書の言葉で言えば私たち罪人ですから、自己中心の動機がないとは思いません。そこは正直になってよいのです。じゃないと嘘で塗りたくった人生って嫌じゃないですか。神様は嘘をつかない、正直で真実で、それでいて、本当に私たちのことを考えて救って下さる神様ですから、嘘はやめようじゃいか、美しくない、あなたはもっと美しいはずだと、天の父として本当のことを言ってくださる。わたしには嘘をつかないで生きてごらんと。人にはどうしても隠さないと生きていけないこともあるだろうけれど、わたしには正直に言って、天の父よ、罪を赦して、清めて下さいと求めて良い。わたしは赦す。そのためにあなたの罪と汚れを全部十字架に釘打って、あなたの身代わりに、あなたの主となった御子キリストが全部引き受けて償ったから、この十字架の救いを信じて生きてごらんと父・子・聖霊の三位一体の神様が総動員でもって私たちを救って下さるからです。だから神様には、正直に向き合える。それが信仰です。信頼するということです。神様は、聖書でおっしゃっている通り、本当に、愛し抜いて下さり、救って下さるんだと、全部正直に向き合える。

さっき何で礼拝に行くのだろうと言いましたが、ま、それぞれ色んな理由があるのでしょうけど、聖書でも教えられている、皆で礼拝に行く動機。それは十字架で全部受け入れて、赦し救って、愛して下さる神様に、この神様だけには正直に生きて行こうと神様に向き合いに来る信仰の言わば馬鹿正直さに本当に生きていいんだと、その信仰を持ちよって励まされに来るのです。本当に神様は生きておられる、キリストは生きておられると。そして、その神様の御言葉を聴くのです。そのとおり、それでいいのだと、神様が、わたしはあなたを全面的に受け止め愛して共に歩むから、そのまま嘘のない真実を求め目指して、わたしを信じてついてきなさいと、イエス様によって導いて下さる。その十字架の救いに対して、神様すごい!アーメン!と礼拝するのです。

今朝の御言葉で「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と力を込めて言われます。この十字架を誇る、言い換えれば、十字架の救いを誇る態度が、生きる動機となったら、平たい言い方で言えば、世の中が怖くなくなってくる。世の視線や人々からどう思われるかが、ま、いいかってなってくる。それが、続く御言葉「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです」という意味です。詳しくは次週説き明かしますが、要するに、世の中がこうだから、私もこう生きな!という、世の支配は、もう効力を持たなくなって、あ、じゃあいいやそれって。その代わり、神様の愛と正義が示されている御言葉に従おうと、生き方の基準が取って替わるのです。

無論、先に言うたように、自己中心の動機が、しぶとい油汚れみたいに心に沁みついてますから、自分の損得中心に動いてしまいもするのですけど、十字架の主は、そこで私を責めないのです。責める代わりに、やり直そう、何度でも。わたしはもっとしぶとい!この十字架を見よ!と、完全な赦しと愛を信じさせて下さる。あなたはわたしを信じるか。ついてきなさい。自分はダメだと信じなくて良い。自分は自分の力で何とかできるとも信じなくていい。わたしがあなたを救うから、信じて、わたしに従いなさい、とイエス様が優しく力強く招かれるから、だから私たち、十字架を誇れるのです。

さて、今朝の御言葉には言わば反面教師的に、十字架を誇るよりも、「肉について誇りたい」という何か高級精肉店みたいな(笑)ちょっと分かりにくい動機もあげられています。が、分かりやすく言うと、人は自分の行いを、どうしても誇りたいところがある。ま、自慢です。自慢。どう俺?って、人から、すごいやんって思われたいところがある。

この自慢。自分に慢心する、高ぶるのですが、自慢の慢は、調べたら仏教用語で、人と比べて高ぶるという意味だそうです。わかりやすい。自分を誇る。どうやってか。人と比べるのです。これに対して、十字架を誇るのは、人と比べるも何もない。十字架で成し遂げられた救いに、そこに示された愛と正義と憐れみの神様に、すごい!と。比べないのが十字架を誇る生き方だとも言えます。

これ、人間に対しても、例えば子供が自分を犠牲にして誰かに優しくしているのを見たら、お父さん、誇りに思うって言う。誰かとなんて、比べないですよ。ま、俺がこれっくらいの頃はホント自己中心やったと思うことはあっても、だからって比べて誇りに思うわけじゃない。もし比べてたら、自慢しゆうだけです。しかも俺にはこんなすごい子がいると、自分を高い位置に立たせるために人を、あるいは何かを利用して、どうで、すごいろと自分を高くするのが自慢でしょう。

自分の行いを誇るのも、自分は割礼を受けているからとか、え?割礼を受けてないが?いかんやか、律法を守ってないやかと、自分はそれをやっているけど、え?やってないが?と、人と比べて、自分を高い位置に置いて自分を誇る。それは十字架を誇るのとは全く別物です。

だって神様は、人と比べて私たちをご覧になることは決してないからです。教育的な意味で、模範として私たちを導くために、あるいは反面教師的な意味で、誰かを引き合いに出すことはあっても、誰かと比べて私たちの何かを判断することは決してない。他の人よりも悪いから罪を責めるとか、絶対にない。神様が私たちの罪を裁かれるのは、私たちの罪を犯す心と動機と、その結果どんな被害を誰に与え、それに対しての正義の報いは何であるかをご覧になって、神様は私たちの罪を裁かれるのです。人と比べて裁くのは、いつでも人間のすることです。人は裁くことにおいてすら、あの人より自分はましで正しいと、人と比べて自分を誇り、何であんなことができるのかと、自分の正しさを自分で認めて高い位置にいる人の顔で、比べて裁く。

けれど、人と比べて裁くことのない神様、そして人と比べて愛することも決してなさらない神様が私を見られる時には、誰とも比べないで、ただ私だけを見て向き合われるのです。私がそこで誰かと自分を比べることによって自分を高くしたり、あるいは言い訳をすることを決してお許しにならない。この聖なる愛と正義の神様が私に向き合われる時に、じゃあどうやって私に向き合われるか、そしてあなたに向き合われるかと言ったら、神様はそこで必ず十字架のキリストによって私たちと向き合われて言われるのです。見なさい、この十字架の上で、あなたの罪をわたしは裁き、あなたの罪を負った御子を犠牲にして、あなたを赦す。この十字架を誇ればよい。この十字架の救いを信じ、依り頼み、あなたを誰とも比べることなく、それ故に何の言い訳もあなたに許さないで、ただ十字架の犠牲と償いの故に、あなたをそのまま受け入れるわたしをあなたは信じるか。信じなさい、わたしは主、あなたの神だと、神様は一人一人に向き合われるのです。

それは人と比べる事が当たり前の世の生き方の基準とは全く違う基準に生きること、全く違う土台の上に、自分の人生を新しく造り直す信仰の生き方です。12節で言われているように、人から良く思われたくて、嘘の顔で、しかも、罪について嘘の自分を見せたり、隠したり、自分にも同じ嘘をついて、人と見比べて、だから自分はこれでいいと嘘の自分を認めるようなことは、けれどもう神様の前では、わたしの前ではしなくていい、そういう嘘からはもう自由になろうと主は言われるのです。神様が十字架の愛で思って下さっているから、だから、人からどう思われるかで、自分の救いや自分の価値を勝手に決めなくていい。誰にも、自分にも、そんな大切なことを決めさせてはならない。神様が十字架で決めて下さっているからです。あなたのためなら命を投げ出す。あなたはそれだけの価値がある。あなたはわたしの愛する子だと。どんなに世が、それを嘘だと言っても、自分の心が嘘だと言っても、ここに神様と私たちの真実があるから、この十字架の救いに身を置いて、アーメンと十字架に頼ればよいのです。